線路が曲がるくらいおこったはるねんて    久保田紺

(久保田紺句集「大阪のかたち」より。)
いかにも実際の会話の中のワンフレーズのように思われる。「線路が曲がるくらい」ねえ。相当な怒り方?と思ってみるものの、そこには現実感がない。だいたい線路って、そうそう真っ直ぐでもないしねと思ったりする。どれくらい怒っているかという怒っている人のことはどうでもよくて、怒っている人を話題にしている語り手の表情や身振りや口調ばかりが浮かんでくる。「おこったはるねんて」と言われてエライコッチャなどと言いながら、これまたちっとも動揺していない聞き手の姿までが想像される。「線路が曲がるくらいおこったはるねんて」と聞くと、何やらほっとしたような心地よさを感じるのは、わたしも関西人の端くれだからだろうか。こんな「のりたま」句も好きである。

別嬪になれとのりたまかけまくる  久保田紺

2015年5月26日 22:51

春昼の机の上の方眼紙    広瀬ちえみ

(川柳「杜人」245号より。)

くるりんとうしろを向いてしまう耳
     さびしがらせてしまった夜の
春昼の机の上の方眼紙
     たとえば虹をどこへ置こうか

広瀬さんの「くるりんと」10句は長句と短句が交互に詠まれている。長句を受ける短句を1組とする5組の作品として読ませていただいた。五七五七七なら短歌ではないのかとも思うのだが、五七五に対して七七で答えている形式ではあっても、それぞれが1首の短歌でなければならない気はしない。広瀬さんは川柳を書く人だという私の先入観のせいなのだろうか。ちょっと自信がない。五七五と七七があれば、いろんな遊びができる。川柳書きは幸せなのである。

2015年5月22日 22:22

ドーナッツの穴を前線通過中    中川喜代子

きょうは「やさしい川柳」の日。宿題は「中」。出席15名。教室に入った人からホワイトボードに自分で作品を書いていく。宿題の中から各自が好きな句を1句決める。わたしは、中川さんの句に手を挙げた。ドーナッツ!ナッツやん。と、まず反応してしまったことはさておき、存在しないものなのに、こんなに存在感があるものはドーナツの穴をおいてはないように思える。そこを通過する前線。前線の通過に伴って気温は下がり、激しい雨が降ったりもする。何だかよくわからない違和感というか不思議さにひかれた。天気図の中でドーナツの穴のように見えるところを前線が通過するだけのことなのかもねと思いながら。「それだけのこと」から違う何かを生み出すことができるのが言葉なのかなと思う。

言い分がアイス最中の皮みたい   小奈生

2015年5月21日 22:59

家族の靴右向け右に干してある    高田桂子

(川柳「フェニックス」No.4より。)
家族の靴が干してある。洗って干す靴だからスニーカーや学校の上履きだろうか。子どものいる若い家族の風景だ。洗濯物でもそうだが、干す行為には干す人のこだわりが出る。きっと、この家のお母さんは右向け右の法則で干しているのだ。お母さんが右向け右の号令をかけて仕切っている家族は幸福な家族にちがいない。干された靴が語る家族の物語に、思わずくすりと笑いがこぼれそうである。

2015年5月19日 15:55

靴底の愚痴を聴いてる土踏まず    三好光明

(川柳「フェニックス」No.4より。)
川柳を書く人は体の部位が好きですねえという話をすこし前にしたばかりだ。堂々と土踏まずの登場である。靴をはいていても決して靴には密着しないアーチ、あの微妙な空間に靴底の愚痴がもれてくるのだろうか。常に接地している靴底の辛さを経験することのない土踏まずだが、親身な愚痴の聴き手ではある。と、想像をめぐらせていると足の裏のアーチの部分に意識が集中してくる。このあやふやな体の部位を愚痴の聴き手として選んだところがいい塩梅だと思う。

2015年5月15日 22:57

ひまわりの鎖骨を見てる昼の月    安井紀代子

(川柳「フェニックス」No.4より。)
塀を越えて顔をのぞかせるひまわり。やや上向き加減にすくっと立った姿を思い浮かべると、確かにあのあたりが鎖骨かと思われるところがある。そのひまわりを眩しそうに見ているのが昼の月である。昼の月とひまわりが存在する空間はちぐはぐな感じがしておもしろい。日常の中で、わたしたちはときどき「あ!」と思う光景に出会う。そんな時には、何だかとても得をしたような幸せな気分になる。昼の月が、遠慮気味にひまわりの顔ではなく鎖骨あたりを見ているように感じた作者の感覚に心ひかれる。

2015年5月11日 22:16

ベランダで私の心干している    稲垣康江

(川柳「フェニックス」No.4より。)
心を干すことと川柳を書くことは似ている気がする。身の回りのいろいろなことを五七五の言葉に託して表現しようとするとき、その対象を客観化し、突き放して見ようとする。そして、できるだけ淡々と、ときには皮肉ったり笑い飛ばしたりしながら川柳にする。それは、じめじめした気持ち悪い心を風に当てて乾かしたいと思う心と重なっているように思われる。からりと乾いた心なら手触りも気持ちよさそうだ。少なくとも自分はそうありたいという願いのようなものが川柳を書いている人にはあるのではないか。わたしは、そう願う派である。

2015年5月10日 17:04

今日という日の電気消す左手で    松長進

(川柳「フェニックス」No.4より。)
左手で電気を消す日はどんな日だったのだろう。わざわざ「左手で」と言っているのだから、右手は使わない、あるいは使いたくないという意志の表れとみてよいと思う。右手は、直接的に何かを行うために必要な働きを担う。字を書き、箸を持ち、ドアノブを回し、バイバイ!と手を振る。そうではない左手で電気を消す動作が、今日という日がどんな日であったかを想像させてくれる。わたしが想像したのは、何かしっくりこなくて疲労感の残る一日の終わり。でも電気を消して眠れば明日になるから、とりあえずもやもやしたままベッドにもぐりこむ。「左手で」電気が消されると同時に、読者それぞれの想像の世界にスイッチが入る。

2015年5月 9日 10:53

誰のものでもないものがまた増える    安藤なみ

(川柳「フェニックス」No.4より。)
きっかり五七五になっているのに違和感があって指を折って数えてしまった。意味のまとまりからは12音と5音に区切って読みたくなるからだろう。音の不安定さは心の落ち着かなさや不安を表現するのにふさわしい。うちの中にあるものは誰かが持ち込むものだから、元々は誰かのものであったはずだ。しかし、いつの間にか誰のものでもなくなり、なおかつそこにあり続けていたりする。ふと周りを見回すと、あれもこれも誰のものでもないことに気づく。それらのものたちに空間を占領されていくようなちょっと怖いイメージもふくらんだ。

2015年5月 8日 22:53

闖入者。

日曜日にねじまきの有志で連句を巻いてみた。勉強と練習の半歌仙である。交通至便でもない名古屋の南の端までみなさんが出向いてくださった。その集まりの半ば頃、たまたま廊下に出たところ、黒い影が空中をよぎった。ツ・ツバメだあ!怖いわけではないのに、動揺して「ぎゃー!」と声が出る。「つ、つばめが!」というわたしのオロオロ声を聞いて、れいこさんが飛び出してくる。頼もしい三好さんと、心配そうなまみちゃんも出てくる。みんなで「こっち、こっち!」と屋外に誘導しようとするのだが、なかなかうまくいかない。ガラスにぶつかったり(セミとかカナブンみたいに激突しないところは流石だった)、出ていきそうになってもどってしまったり、歯がゆいことこのうえない。ツバメが家の中に入ってくるなんて!三好さんの落ち着いた声が功を奏したのか、しばらくのナンジャモンジャのあと、ようやくドアから外へ脱出してくれた。屋内を一直線に飛ぶ闖入者であった。

2015年5月 5日 09:07

愛知県連句協会設立。

2016年に愛知県で国民文化祭が開催されるのに先立って、昨日5月2日に愛知県連句協会が発足した。蕉風発祥の記念碑のすぐ近く、久屋大通沿いの金城大学サテライトがその会場である。会長は杉山壽子さん(桃雅会代表)。涼しげな和服の着こなしが優美な方である。愛知県の連句のグループが集まって何かをするという新しい試みでもあり、午後からは6つのグループに分かれて半歌仙を巻いた。今年9月のプレ大会から来年11月の本番まで、何かと慌ただしそうな気配だ。来年の本大会は、熱田神宮での興行があるとか。いろいろあるのは、楽しそうでいいことだと思う。

2015年5月 3日 12:20