セーターをほどくみたいに逢いましょう    笹田かなえ

(笹田かなえ句集「お味はいかが?」より。)
「逢いましょう」なのに、やけに爽やかだなあと思う。セーターをほどくのは、昔、母がよくやってた。「はい、手を貸して。」と言ってわたしに毛糸を巻き取らせる。子どもの頃は、毛糸がするするほどけてセーターがどんどん消えていくのが楽しかった。でも、そういうふうに逢う逢い方ってどんなの?と思う。今逢うのだけれど、別れたら何も記憶に残らないような逢い方だろうか。潔いような物足りないようなあっけらかんとした感じだ。こういうことをあっさりとした口調で言えてしまう女性ってかっこいいなあ。わたしは、かっこよく言えないので絶対言わないと思うけど。

2015年3月31日 20:46

「足摺と室戸の先が太平洋、ここは湾。」

高知のタクシーの運転手さんの言葉です。広大な湾です。わたしは太平洋だとばかり思ってながめていました。地元の方ならではの感覚です。黒潮に乗って鰹をとりにいくこともあるという運転手さんの実感なのでしょう。どんな場所で暮らすかによって、人の感じ方、ひいては物事の見方も大きく違ってくるのだと思います。龍馬が土佐の出身であったことはごく自然なことなのかもしれないと思いました。「~ゆうが」「~き」という語尾とアクセントが愛らしい高知の言葉に囲まれたくて、モーニング時間の地元の喫茶店でしばらく時間を過ごしてみました。そこで発見したのは別料金のモーニングセットはあっても愛知や岐阜のようなモーニングサービスはないということ。なるほどねえ。名古屋に帰って来てみると、一番違うのは陽射しの強さのようです。

2015年3月30日 13:52

階段を肺が遅れて降りてくる    二村鉄子

(第118回ねじまき句会より。)
句会でわたしはこの句を選んでいない。そのことに悔やしさが残る。あまりに自然な姿だったので、つい見過ごしてしまった。これは息切れとかそういうものでなくて、階段を下りる実体と一緒について来ない何かなのだ。何かが後ろに残っている感じ。遅れが入るズレの感触。遅れてくるものが肺であるというのは十分に納得がいく。それは肺の位置にも関わるだろうし、心臓や胃よりも静かでありながら肝臓や腎臓より意識しやすいからでもあるだろう。選ぶべき句を選びそこねるのは本当に悔しい。

2015年3月24日 22:36

罪状は経歴詐称柿の種    樹萄らき

伊那から、らきさんが小冊子を送ってくださった。らきさんの2014年の作品をまとめたものだ。1年間に自分が書いた川柳やエッセイをきちんとまとめるという作業ができる方は尊敬に値する。少なくとも、いい加減なわたしにはできない。わたしは伊那に行ったことがない。らきさんにも会ったことがない。伊那ってどんなところなのだろう?以前、従弟が仕事でしばらくいたときに何にもない山の中だと言っていたけれど、らきさんはドトールに通っているらしいし認識を改めなくちゃと思う。らきさんはどんな方なのだろう。柿の種の経歴詐称を「おい!」と糾弾しているところを想像してみる。なかなか微笑ましい。同じ時間をまったく別の場所で過ごしている顔も知らない誰かとこうしてつながっていることは、不思議でもあり温かくもある。

2015年3月16日 21:47

マスカット・オブ・アレキサンドリア

今月のねじまきの題詠が「肺」で、どうにもならなくなっているときに、ふと現れた単語だ。肺胞のかたちから葡萄を連想していたせいだろう。きらきらした感じが「肺」という単語の寒々しさと対照的で、なんとか使えないかと思ったが結局断念せざるを得なかった。致命的なのは音数。15音はキツい。これに「肺」の2音を足すともう17音になってしまう。いくらチャレンジ精神を発揮しても「マスカット・オブ・アレキサンドリア肺」では投句できない。ちょっと惹かれる単語だけど、永遠のお蔵入りになりそうである。

2015年3月13日 22:07

豆まきを覗いて春はまた眠る    北原おさ虫

(第117回ねじまき句会より。)
もう!北原さんがこんなこと言うから、季節はずれの寒波が猛威を奮ってしまったじゃないですか!おとといの夜なんか外階段に雪が積もって、手すりにつかまりながらおっかなびっくり上り下りしました。春は熟睡してしまったんじゃないでしょうね。統計によれば3月の今頃の雪は珍しくもなんともないようですが、いったん春を意識してしまうと心にも体にも応えます。眠るな、春!

2015年3月12日 22:34

名前から大きな鳥が飛び立った    倉本朝世

(「あざみ通信」NO.14より。)
「ところで御前田あなたさんと柳本々々さんが同一人物だって知ってました?」と倉本さん。そう、それは、ねじまきでは何度か話題にのぼったのです。絶対同一人物説とマサカ説、半信半疑説など。お二人とも(いや、一人か)「ねじまき」のことやメンバーの句を取り上げてくださるので感謝もし、注目もしていました。わたしには、それぞれに「ねじまき」を送らせていただいたという現実が何より先行していたので、そんなことはどうにでもなるにもかかわらず、モヤモヤしながらマサカと思っていました。ところが、「夢八夜」に至って、柳本さんと御前田さんの境界線が混濁し始めて、???だったのです。そして、いよいよ大きな鳥が飛び立ったというわけです。どちらも驚異的なパワーの持ち主にちがいないので、同一人物だったとしても驚くにはあたらないのですが。ふううーん。

2015年3月 8日 12:42

水滴がさんずいへんで飛んでくる    なかはられいこ

(「週刊俳句」〈テーマなんてない〉より。)
「緑の人」の真下にあるドアを雨上がりの日にうっかり開けると、水滴が大きなさんずいへんになって飛んでくる。それははっきりとさんずいの形が見える。うっかり者の頭にさんずいへんが降りかかると、明るい笑い声が起こる。さんずいへんは光である。水滴がさんずいへんで飛んでくるとき、必ず光がある。公園の水飲み場で。濡れたからだをぶるぶるっと震わせる犬の傍らで。水滴はさんずいへんで飛んで来い。何かいいことがありそうな気持になる。

2015年3月 5日 15:09

きざはしのいきをころしているところ    小奈生

(第117回ねじまき句会より。)
「階の息を殺しているところ」を全部ひらがなに開いてみた。それがよかったのかどうか、非難も含めてメンバーの意見が聞いてみたかったのだが、雑詠の15番だったのでタイムアウトになってしまって残念。句会に出す句は、もちろん自分ではよかれと思ってあれこれするのだが、結果的にそれが大失敗のこともある。自分だけで考えていては判断がつかないことが、他の人の眼を通して明らかになることがあるのだ。だから句会には失敗をおそれず自分なりの問題意識を持って句を提出できるようにしたいと思っている。この平仮名書きは余分なうざったいものではないのかとか考えながら提出したりするのだ。「うざったい」の部分は荻原裕幸さんの声で想定したりして。最近、その声が句会で聞けなくてちょっとさびしい。

2015年3月 3日 14:51