敷島の大和に降らす太田胃散    小奈生

(第117回ねじまき句会より。)
題詠「胃」。極端に言えば、ああ雪が降っているなあというだけのことなのだが、もちろん違う意味合いで読まれることをまったく予想していなかったわけではない。それでいいのか、それではだめなのか判断に迷う。合評のときに、時事吟という言葉も出てきて、いろいろと考えさせられた。やはり句会は貴重なチャンスである。そもそも時事句とそうでない句には明確な境界線があるのか。現代の社会事象を読んだものが時事句なら、現代社会に暮らす私たちが句を作ったとき、社会事象の影響を受けることも多いはずだから、時事句の範囲はうんと広がるだろう。作品がいったん読み手の目に触れたときから、作者がどういう意図で詠んだかではなく、どう読まれたかだけが問題になる。だから作者に聞いてみても始まらない。今まであまり考えたことがなかったので、この機会にまず自分はどう向き合うのかを考えてみたい。

2015年2月27日 16:24

おふとんも雲南省も二つ折り    なかはられいこ

(「週刊俳句」2015.2.22〈テーマなんてない〉より。)
おふとんをたたんで二つ折りにする。うんとこしょ。「雲南省」に似てる。本当にその音かどうかは別として、「雲南省」は音が絶妙だ。un-nanは二つに折りやすい。四川省や遼寧省では代用できない。中国の南の端っこのミャンマーに接するあたり。少数民族が多そう。音には親しいのに、具体的な知識があまりない。それが「雲南省」の適性である。(と書きながら、雲南省についてあまり知らないのがわたしだけだったらどうしようかと少々不安。)おふとんを二つ折りにするのは、日常生活の普通の行為である。そのときに、なんの関係もない「雲南省」という言葉が現れる。行ったこともない中国の一地方は、こちらの現実に一瞬だけ現れて消えていく。こういう不思議な接触の感触がおもしろい。

2015年2月25日 22:58

うがいするまだらな音を出しながら    なかはられいこ

(「週刊俳句」2015.2.22〈テーマなんてない〉より。)
わたしたちは、毎日テーマを持って一日一日を暮らしたりはしない。日常は、もっとささやかで切実なものだ。なかはられいこさんの10句は、そんな日常に寄り添ううつくしい言葉たちだ。「うつくしい」なんて安易すぎるかもしれないが、句に出会った人が自分のことをちょっと好きになれるかもしれない言葉が、そこには示されている。「まだらな音」を聞きながら、まだらな一日やまだらな感情やいろいろなことを思う。「わたし」の出すうがいの音はまだらでしかありえない。ガラガラゴロ・・・永遠のまだら・・・ではない。そのうち息苦しくなって止めるしかないから。音が消える。まだらな音を消した「わたし」がいる。

2015年2月23日 12:52

暁をいだいて闇にゐる蕾    鶴彬

(日本ペンクラブ:電子文藝館「鶴彬川柳選」より。)
昭和10年代のことである。治安維持法で留置されそのまま留置場で亡くなった人だという。川柳が現実の生活者の口をついて出てくるものであるなら、戦争で傷つくことも貧困にあえぐことも言論を圧迫されることも彼にとっての生々しい日常として表現されたのだろう。五七五で、そしてときには五七五におさまりきらないリズムで発せられた句には、彼の生きた時代がはりついているように感じる。川柳には、さまざまなネーミングがされる。サラリーマン川柳、時事川柳、オヤジ川柳、ぼやき川柳、ゴルフ川柳、・・・・・。数限りない。これらのネーミングにどれほどの意味があるのか。人が暮らす日常には、川柳の種がちらばっている。どんな内容であれ、今現在のぬきさしならない何かを壊さないで取り出せる言葉をさがしたいと思う。それぞれの区分でコンテストのようなものもあるせいか、「うまいといわれる川柳が書けるようになる」講座などというのもあるらしいが、いかにも嘘くさい気がしてしかたない。

2015年2月21日 21:41

如月の階軋ませて帰宅    小奈生

「大好きな二月に入ったのに、・・・」で始まるメールが届いて、ふーんと思った。「大好きな二月」か。わたしは、寒いのがきらいだから二月を好きだと思ったことがない。というか、きらいだと思い込んでいた。でも最近、そうではないかもしれないと思い当たるふしがあったのだ。もちろん、メールの送り主の本題はこの後にあるわけで、この部分は季節の挨拶のようなものなのだろうが、この一言にひっかかった。人と人との言葉のやりとりはおもしろい。朝、出かけるとき、ひんやりした空気の中を歩いていくのが気持ちいい。寒いというのとは違う清らかさのようなものがある。光もとてもみずみずしくて明るい。二月ってきれいな季節なんだなと思っていたところだったのだ。「大好きな二月」と言い切るほどではないが、二月の毎日が気に入っている。

2015年2月19日 19:57

柳本々々さんの「夢八夜」。

「アパートメント」で始まった柳本々々さんの連載がおもしろい。ずっと思っていたことだけれど、柳本さんはやっぱり只者ではない。わたしの川柳についての感想を書いてくださったときも、わたしが考えてもいなかったような分析をしてくださって、本当に自分が柳本さんがおっしゃっているような意図を持って句をつくっていたらどんなによかっただろうと恥ずかしくなった。それはそれとして、「夢八夜」である。第二夜『みどりのひと』は、なかはられいこさんの川柳をモチーフにして展開される夢の世界である。

非常口の緑の人と森へゆく   なかはられいこ

この句に初めて会ったときから、非常口の「緑の人」はわたしにとってとても親しい人になった。もう長いおつきあいである。私のデスクは教室の北西の隅にあり、「緑の人」は同じ部屋の南東の出入り口のドアの上にいるので、しょっちゅう視界に入ってくる。いつの間にか、その人は「緑の人」という名を持つようになり、わたしはあたりまえのようにそう呼んでいる。自分の教室だけでなく、どこへ行っても「緑の人」のことが何となく気にかかる。「ねえ、あの緑の人はどこへ行くんだと思う?」と尋ねてみることがある。「え?」と言って、非常口を見上げた人は、しばらく緑の人を見ている。「うーん。」どの人も、白い光の向こうを追う目をしている。緑の人に行く先があることを誰もが信じられるってことがすごいとわたしは思う。

2015年2月14日 20:51

完璧な丸が描けたら起こしてね    なかはられいこ

(第6回ねじまき句会より。)
題詠「丸」の句。この「丸」は丸山進さんの「丸」である。この年は、メンバーの名前から一字選んで題にしていたらしい。「らしい」というのは、私は第7回からの参加で、なかはられいこさんに「どうせなら川柳をつくって来てみて!」とやさしくお誘いを受けて、とりあえず前回の記録をのぞいたのである。この句の第一印象は、「かっこいい!」だった。川柳って、なんてキュートなの!とどきどきした。なかはられいこさんの底知れぬ魅力にびびりながら心ひかれた。れいこさんは、わたしがよく知っていて、しかも言葉にしたことがない感覚や状況を、いとも簡単に取り出して見せてくれる。日常の飾らない言葉で。かっこいい!これは、今も変わらない気持ちである。

2015年2月13日 17:27

黒酢入れなだめなだめたはてのはて    中川喜代子

(第116回ねじまき句会より。)
「なだめなだめたはてのはて」をぼんやり眺めていると、いつの間にか「だめなだめ(な)」になっている。はてはて、どうしたものか。平仮名による錯覚がおもしろい。黒酢は健康によいというのでおおいに注目された食品だ。鹿児島に行ったときに、本場の黒酢をたくさん見たけれど、なかなか高価な代物である。飲みにくいのでそのままは使いにくいらしいが、いろいろな食品に「黒酢~」として利用されている。黒酢から作られたサプリも多い。そんな黒酢を体内に取り込んでなだめなだめた挙句の果てが・・・・・。さあ、どうなんでしょうね。ダメダメ錯覚を起こしてしまったあとでは、あんまりよい効果があったとは思いにくいのですが。でも、人気の健康食品の効果って基本的にそういう感じがします。

2015年2月12日 22:46

仮定法過去でしゃべればきょうは雪    小奈生

ひとひら魔法のようにあらわれる。あ、雪。降ってないよと言う人がいる。あれ、見間違いかなと思っていると、そこにもあそこにも。たちまち数えきれないくらいになり、そのうちに目の前は無数の白い点におおわれる。世界中からすべての音を奪いながら、ひたすら雪は降る。わたしと世界の境界をかき消すように降りしきる。すべてをありのままに受け入れなさいと教える静かさである。

2015年2月11日 18:27

吊り下げてみると大きな父である    飯田良祐

(「実朝の首」より。)
男性にとって父親とはどんな存在なのだろう。私は姉妹二人なので、そのへんの感覚がまったくわからない。この句集を読んでいると、父親の存在が強く意識されているように思われる。そして、その具合がわたしと父の間にあるものとは明らかに違う。句集全体を通して、定型におさまらない句が多いように思った。一方、掲出句のようにピッタリと五七五におさまっている句もある。だから、出発点は五七五なのだ。しかし、どうにもおさまりきらない何かを無理に五七五に整えることは不可能だったのではないか。破調のかたちにおいてこそ表現できると感じたものが、そのまま残されたのではないだろうか。そんなことを考えながら初めて知る作家の句集を読ませていただいた。

2015年2月 8日 18:31

晩年を猫の眼をしたものが飛ぶ    小池正博

(「川柳カード」7号より。)
何やら緊張感のある句だ。「晩年」とは誰の晩年なのか。たとえ小池さん自身の晩年を指すのではないにしても、晩年をどうとらえるかという認識の出発点は作者自身にあるはずだ。また、いつからが晩年なのか。50代から?60代から?いやもっと先だろうか。猫の眼は見開かれた、見通す力を持った眼であり、それに駆り立てられる晩年はのんびりしたものではないにちがいない。小池さん、次々にいろんなことをやろうとなさってるからなあと思う。5月には「川柳フリマ」を主催されるらしい。パワー全開だ。小池さんの1句からこうして勝手なことを思うわけだけれど、怖いのは博識な小池さんの意図するところからわたしがあられもないほど逸脱している可能性があることである。何の話してるの?くらいに。うだうだ考えていたら、郵便物が届いた。差出人は小池さん!川柳カード叢書②「実朝の首」(飯田良祐句集)が現れる。なんか、やっぱり小池さんだぁ!

2015年2月 7日 18:55

つぶ餡のままで消えようかと思う    谷口義

(「おかじょうき」第19回杉野土佐一賞より。)
「そうですねえ、それもいいですねえ。」と返事してしまいそうな自然さが好きだ。五七五の区切りに従えば「つぶ餡の/ままで消えよう/かと思う」であり、疑問の助詞「か」の位置がはみ出しているために、「消えよう」という意志と「消えようか」という逡巡の間の微妙な揺れが感じられるのも効果的だと思う。つぶ餡派とこし餡派では、本格的な甘党はこし餡派でつぶ餡派は邪道にあたるという人がいる。でも、わたしは豆の感じられるつぶ餡が好きだ。小豆の皮が口の中に残ったりすることもあるけれど、素朴で親しみやすい気がする。だから、つぶ餡のままでこし餡になることなく消えていくというのには共感できる。消えていく主体である一人称の主が餡子であれ人間であれ、「いいですよね、それで。」と呼びかけたくなるのである。

2015年2月 6日 15:47

アスコルビン酸と名古屋城混ぜる    井上一筒

(「川柳カード」7号より。)
9・5・3の17音。音数の合計は定型におさまっている。それはそれとして難しい。こういう句に向き合うと、自分がどうしようもない阿呆になったように感じる。アスコルビン酸って何なのだ?これを調べればわかるのかとググってみる。ビタミンCとしてはたらくラクトン構造を持つ有機化合物の1種だと書いてある。ビタミンCが唯一の拠り所である。食品添加物の酸化防止剤として広く使用されるらしい。このくらいならだいじょうぶだ。それと名古屋城を混ぜるのだなと先に進んでみる。姫路城じゃダメで、大阪城でもダメで、彦根城ももちろんダメなのだから・・・ああ、やっぱり頭が機能してくれない。混ぜるとどうなるんだろう。そこにあるはずの何かがすっきりと見えないのがもどかしい。一筒さん!愚かなわたしを助けてください。
井上一筒さんと初めてお会いしたのは、バックストロークの名古屋大会のときだった。偶然、お隣の席に座った。ちょっとこわそうな感じでビビっていた。「イートン!」という独特の節回しの呼名に、ただ者ではないとさらにビビった。帰り際に、「一筒」が何のことかわかるかとお尋ねがあったので、「ピンズのイーピンですか?」とおそるおそる答えると、「女性なのによくわかったな」というようなことを言っていただいて少し親近感を持った。次に別の大会でお会いしたときに名前の由来をお尋ねすると、後日丁寧にお手紙をくださった。最近お目にかかる機会がないが、今度お会いしたら今度こそ川柳のことをお話したいと思う。私は去年から文化センターの女性のための麻雀教室のお手伝いをしている。何となく一筒さんとはご縁があるように感じるのである。

2015年2月 5日 22:31