うしろ手に持っている陽水の声    畑美樹

(「川柳カード」7号より。)
高校生の頃、陽水派と拓郎派がいた。わたしは絶対的な陽水派。吉田拓郎がアノ顔でガンガン歌うと、後ずさりしてしまった。対外的には「せつなくないのはダメ!」とか言っていたような気がする。今や二人とも大御所で好きも嫌いもないところにいる。陽水の声をうしろ手に持っていて、ここぞというときにひょいと取り出したら、これはなかなかいけそうである。あの高めでねばっこい独特の声である。効果的だ。何に?と聞かれると困ってしまうが、なかなかの武器になりそうに思われる。そう言えば、その頃小椋佳派という新派閥も登場して、なんだかわからないが、わたしは全否定していた。

2015年1月24日 21:36

Où est-que nuos allons?

フランス語なんて大学の第2外国語でとっただけなので全然できない。だから表記が間違っていたら恥ずかしいのだが、音だけはずっと記憶から消えない言葉である。「私たちはどこへ行くの?」というような意味だったと思う。ふとした瞬間に声の記憶としてよみがえってくる。初めてこの言葉を聞いたのはもう何十年も前のことだ。そのとき、どのような意味を持ってわたしの前にあったかは別にして、こうして長いおつきあいをしているということは、私にとって大切な言葉なのだろう。今朝はそんなことを考えながらバス停まで歩いた。寒いのを覚悟して外に出たのに、太陽を背にして歩いていると、腰のあたりにほんのりとした温みがたまった。

歩くなら一人がいいの青空に象のこどもがうまれたように   東直子
                  (「回転ドアは、順番に」より。)

2015年1月23日 17:25

身を知る雨は降りぞまされる

久しぶりの雨。乾燥しきっていたものが潤いを取り戻しているようでほっとする。雨が降ると、この下の句がいつも浮かんでくる。伊勢物語に出てきた和歌で、作歌の経緯は、主人公の男が頼りない女の代作をして、その恋人の反応をおもしろがっているというものだから、切迫感も何もないものだが、このフレーズが妙に残ってしまったらしい。「ミヲシル」の音かなあ。雨が降る。いっそ、もっともっと激しく降ればいい。そんな感覚に何かが共鳴しているのかもしれない。

2015年1月22日 14:29

ハンガーに三年前が掛けてある    熊谷冬鼓

(「おかじょうき」2015.1月号より。)
三年前というのは、ちょっと前のこともあるしずいぶん前のこともある。掛けてあるものは、よいものかもしれないし悪いものかもしれない。何ひとつ語られていない。ただそれは、ハンガーなんかに掛けっぱなしになっているので、時折目に入るのだ。目にしてどうだというのでもない。あるものをあるがままに受け入れていることだけがわかる。淡々とした受容が好ましい。

2015年1月16日 22:19

死ぬときはびわこになると思います    本多洋子

おかじょうき川柳社の第19回杉野土佐一賞大賞作品である。本多洋子さんという川柳作家が一瞬で旧知の人のように感じられた。亡くなった義父が倒れて入院しているときに、何も言わずにベッドに身を横たえる傍にすわって、何も言わずに何時間も一緒に過ごしたことがある。穏やかそのものの義父の瞳を見つめながら、「お父さんはだんだん湖みたいになっていくなあ。」と思った。病室の窓から夕暮れの薄い光が差し込んでいた。そのときの「湖」も、あたりまえのように頭に浮かんだ言葉だった。本多さんの作品がストンと心に落ちてきた。

2015年1月15日 14:34

腰椎がずれそうでくちびる離せない    守田啓子

(「おかじょうき」2015.1月号より。)
とりあえず、おかしい。キスの途中でギクッときて微妙な体勢のまま動けなくなった図?笑うしかない。トホホである。でも、もうちょっと考えてみると、キスなしでもいい気がしてくる。何かの拍子にギクッ。ぐっと唇をかみしめて、その力を弱めたら腰椎がずれそうで固まってるとか。動けないままに自分の姿を思い浮かべる。滑稽にちがいないけれど、どうしようもない。このへんてこりんな体勢は、物理的なものじゃなくて状況として身に覚えがあるように感じられる。かたちのないものが、かたちとして取り出された句ではないだろうか。

2015年1月14日 22:31

目を閉じる知らない町に雪が降る    妹尾凛

(「杜人」244号より。)
目を閉じることは外界を遮断することだ。そのときに見えるのが、知らない町に雪の降る風景だという。雪は音を奪う。雪の降る風景は音のない世界だ。〈わたし〉はひとりである。でも、寂しさより落ち着きや明るさを感じるのはなぜだろう。それもまた雪のせいだろうか。雪は降り始めてしまえば、降りだす前より寒くない。光を反射してやけに明るい。知らない町に雪の降る景色には安堵すら覚えるのである。

2015年1月12日 16:45

セロリ歌う早口言葉少し狂って    青砥和子

(「杜人」244号より。)
セロリを噛む音と〈わたし〉だけがいる時間だ。噛む音は自分の中でやけに鳴り響く。繊維質の多いセロリを噛む音なら〈わたし〉を支配するにじゅうぶんである。トーキョートッキョコリキョカコリック。句のかたちは、6音・7音・7音。少し狂っているのだから仕方ない。わたしたちは、思いがけずに、あるときふと他と共有し得ない自分自身を実感する。孤独というほど大げさなものではない。しかし、セロリの早口言葉は、〈わたし〉にしか聞こえない。それは一抹の寂しさを伴う感覚かもしれない。イカの燻製(おつまみによくある輪ゴムのかたちのもの)をちぎったものとセロリのフレンチドレッシング和えは、友人に教わったお気に入りのレシピだ。

2015年1月10日 18:08

骨の口、骨の耳。

ずっとずっと歌ってきたの骨の口

おしゃべりを聞いているのよ骨の耳

「杜人」244号に掲載された広瀬ちえみさんの独白風連作『つぶつぶ』の中の2句である。「口の骨」「耳の骨」ならば、それぞれの身体器官を機能させているのが骨であることを言うにすぎない。ところが、「骨の口」「骨の耳」と逆転することで、すっかり様子が変わってしまう。まず、居心地の悪い違和感に立ち止まる。もう、口や耳の肉付けは失われ、骨だけがそこにある。何しろわたしたちは自分の口や耳を鏡などに映るものとしてしか見ることができないのだ。口の場合は上下の唇が触れることを通して肉の存在を自覚できるが、耳に至っては手で触れてみない限り肉に覆われていることすらわからない。広い野原にぽつんと立ちつくしたとしたら、口も耳も背骨を中心として体を支える骨の延長として自覚するくらいしかできないのだ。「口の骨」が「骨の口」になり、「耳の骨」が「骨の耳」になることによって、研ぎ澄まされた「わたし」の意識が立ち上がってくる。

2015年1月 9日 17:14

牡丹雪と失うものを数えてる    丸山進

(第23回ねじまき句会より。)
新しい年がやってくると、何かしら考える。子どものときほどお正月を特別なものには感じなくなったが、それでも何となくである。年をとったから、こわいものがなくなってきたという人がいる。そうかもしれない。確かに、若い時よりも「何を今さら」と大胆になれる一面もある。でも、若い時には知らなかったような得体のしれないこわさを感じることもある。どっちもどっちだ。このとき丸山さんが数えてみた「失うもの」は何だったのだろう。失ったものではなく、失うもの。空からゆっくりと落ちてくる牡丹雪を数えながら、もう落ちてくる雪しか見えなくなり、ついには自分の身体の感覚もなくなり、これから失うものを数えている。それは、牡丹雪の数ほどに際限のないものだったのだろうか。牡丹雪が地面に触れると、あっという間に消えてしまうように、数えたはずの失うものもそれが何だったのか、おおかたは忘れてしまうんだろうな。

2015年1月 8日 22:30