行く秋の光のようなコンニチハ   小奈生

巡り合わせなのか、川柳という言葉をやたら目にする。なんとなくテレビのスイッチを入れると、意地悪そうなかっこいい女性が心の中で川柳と称するものをつぶやくシーン。おお、いわゆるOL川柳というやつか。銀行に振り込みに行くと、設置されたテレビ画面では、虫食い川柳というクイズのようなものが流れている。などなど。川柳ってメジャー!いや、そうではない。あれも川柳これも川柳にはちがいないが、そちら側からすると、私の書く川柳などはクソおもしろくもない正体不明のものになるだろう。つまり、私の書いている川柳は、川柳としての市民権を得ていない川柳ということになる。なかなかに話は複雑である。

2014年10月31日 12:29

頭韻と脚韻踏んでする会話    小奈生

ゆうべは、今池の得三に、ザ・サウスの3年ぶりのライブを聴きに行った。前回のライブの後に、ギターのジョブさんに渡しておいた歌詞に曲がついてお披露目してくださるとのこと。何やら恥ずかしい。「曇天」と「疾走」の2曲。「曇天」は、ノリの悪いウルフルズみたいだったのと、歌詞が聞き取りにくくて、反省しきり。歌とは、読まれるものではなく歌われるものだということを、初めて実感した。「疾走」はザ・バンド風の仕上がりになっていて、違和感なく聴けた。曲をつけてくれたジョブさんに感謝する次第。言葉って本当に難しくておもしろいと思う。会場でお漬物の「丸越」の関係者(たぶんエライ人だと思う。)をみかけたので、西原天気さんが「川柳ねじまき」の紹介記事の中で、名古屋で唯一おいしいものとして紹介してましたよということを伝えた。とっても喜んでもらえた。一種のねじまき効果である。

2014年10月27日 16:25

大好きな人と芒が原にいる    小島蘭幸

(「再会Ⅱ」より。)
小島蘭幸さんが、句集を送ってくださった。美しい緋色の装丁である。高村光太郎の「智恵子抄」を思わせるような。表紙を開くと、蘭幸さんのお写真があって、つい会釈をしてしまった。そして、その次に現れたのがこの句である。静かな風と、やわらかい光を感じる句だ。とても気持ちがいい。大好きな人と芒が原にいるのは、どんな心持ちなんだろう。彩色を施さない穏やかな世界。風も光も肌で感じながら、静かに吹かれている。「大好きな人」という大胆な言葉を、わたしもいつかこんなに淡々と使えるのだろうか。

2014年10月21日 16:52

住所氏名年齢職業鰯雲    鳴海賢治

(あざみエージェント川柳カレンダー・2014年10月より。)
病院にお見舞いに行って帰ってきて、玄関を入ったときにふとカレンダーに目がいった。「鰯雲」に、ほっと息をついた。10月になってから、ずいぶんたつのに、きょう初めて見た気がする。住所氏名年齢職業の記載を要求されることがある。しょっちゅうではないが、確かにそんな機会は誰にもある。それらは、まぎれもない事実であり、わたしが誰かというひとつの説明ではあるけれど、そんなもの鰯雲さと言われた気がする。世界はミルフィーユのように多層であり、はらりとめくれると何が出てくるかわからない。想像もしなかったことが次の瞬間には現実となって迫ってくる。だけど、なんとかなるはず。きょうのわたしにとって、そんなことを確信させてくれる一句だった。

2014年10月16日 16:32

おとうとの齧った爪のおとうとよ    小奈生

このあいだの水曜日は皆既月食だったらしい。ぜーんせん知らなかったけどちゃんと目撃していた。たしか午後7時と8時の間頃だったと思う。何気なく外に出て、「外は涼しいねえ。気持ちいいよ。」と言いながら空を見上げた。お月さまがへんなかたち!「ねえ、きょうの雲のかかり方変だよ。見て、見て。」と声をかけて中1の女の子を呼び出した。「ほら、爪の伸びたとこみたいなかたちだよ。」「うん。」「こんなの初めて見た。」「うん。」「あ、消えちゃう・・・あーあ、全部雲にかくれちゃったね。」「うん。」と、こんなことがあったのでした。皆既月食だったのですね。どうりで変だと思ったよ。

2014年10月11日 15:44

どうぞその青は踏んでも起きるから    広瀬ちえみ

(「杜人」243号より。)
「どうぞ」と差し出される「青」は何の青なのだろう。「踏んでも起きる」という強い性質を持った青である。踏んでも起きると言えば雑草だ。確かに緑のことを青と言うし、「青々とした葉」などの表現にも違和感はない。だが、「その青」は緑であってはならない気がしてしまう。青色の持つ侵され難い清澄なイメージがこの句の中に確かに生きていると感じるからである。と、そこでいいのか悪いのかわたしは脱力する。こういう「青」の不思議さをおもしろがればいいじゃない!と思うのである。

2014年10月 6日 16:45

長々と蛇の夜鳴きのような返信    小奈生

10月最初の日曜日は台風待ちの一日。雨がひとしきり強くなったかと思うと、また小止みになっている。雲は厚く、雨が降っていないときには奇妙な平穏さに支配される。このあたりで風雨が強まるのは夜からだろうか。台風の前のこの感じも、台風が去った後のあっけらかんとした晴天も、どちらも嫌いじゃない。でも、最近は何かしら大きな被害が出るようなことが多いので、それだけが心配だ。どうか何事もなくこの列島を通り過ぎてくれますように。

2014年10月 5日 15:55

灯台の8秒ごとにくる痛み    八上桐子

(第112回ねじまき句会より。)
灯台の明滅する光を痛みと結びつけたところがおもしろい。灯台によって閃光の間隔が決まっていて、実際に8秒ごとの灯台もあるらしい。句会でも「8」の意味が話題になったが、「8」は ∞ の記号を連想させるという点で概ね一致した。細部まで神経の行き届いた作品である。一定の間隔で無限に放たれる光は、身の内に抱える痛みを読者に伝えるのにじゅうぶんである。ところで、わたしは痛みはこらえようとするから痛いのだと思っている。もちろん痛みの種類にもよるので一概には言えないが、自分ができるだけ痛みと同化することが痛みを乗り切るコツではないだろうか。自分の外にある客体化された痛みは堪える対象だが、自分が痛みそのものになってしまえば堪える必要はない。そう考えると、8秒ごとに光を放つ灯台の痛みがいよいよ他人事とは思えなくなる。

2014年10月 4日 13:32

立ち上がる熊にんげんの背中して    八上桐子

(第114回ねじまき句会より。)
題詠「熊」。なんて厄介な題!でも、この句はあきらめていないなあと思う。正面からぶつかってみようとしたものの、うまくいかなくてひょろひょろ逃げを打った自分と比べると凛々しいよ、桐子さん。立ち上がった熊の絵が浮かぶ。その背中に「にんげん」を感じる。うんうん、感じる。怒りとか悲しみとかがこめられた背中だ。「熊」との真っ向勝負に感服した。「にんげん」を漢字表記にすると「熊人間」みたいだから平仮名になったところもあるのかと思うのだが、この句では平仮名表記が不自然ではなく、むしろ個体としての人間ではなく、存在としての人間を表すのに効果的になっている。あきらめない心、向き合う真摯さが大切なんだと改めて思う。

2014年10月 1日 17:22