胸中のほていあおいをどうしましょ    なかはられいこ

(第113回ねじまき句会より。)
「キョーチューノ」がいい。漢語乾燥効果というのか、抒情的なものを取っ払ってくれる。いや、ほていあおいなので間違ってもそんなことはないとは思うが、「胸の内」でも「心の中」でも困る。漢語の大仰な感じもおもしろい。池に繁茂して、どんどん増殖するあの水草。空気がはいった袋をもっていて、滑稽でもあり不思議でもある。子どもの頃はながめたりさわったりしたものだ。夏の終わりの疲れを抱えた体と心には、ほていあおいが増殖中だったのですね。どうしましょ。うっぷ。まあ、しょうがない。なんだって飼い馴らすしかない気がします。
「布袋葵」は夏の季語。気になって歳時記を調べてみた。

旅果を土佐の津にあり布袋草    鍵和田秞子

歳時記にあるのだから、布袋葵の代表句にちがいない。残念ながら、布袋草をどうとらえるべきなのかがわからない。助けて!

2014年8月29日 15:49

アサガオノカスカナカオススガシカオ    八上桐子

(週刊俳句・柳俳合同誌上句会より。)

朝のシーツにランゲルハンス島の砂   八上桐子
ちょっとした砂丘になって待っている  なかはられいこ
立秋の金銀パールプレゼント      なかはられいこ
本体を待っている間のくすりゆび    なかはられいこ

これが、わたしの選でした。句稿が発表されてすぐに、荻原さんが選句をツイッターで発表していらっしゃいました。それに対して、西原天気さんがご自分の選も一致するということを述べていらっしゃったと思います。(記憶に誤りがあったら、すみません。)同じだったので、なんとなく口をつぐみました。結果が発表されて、ますます何も言えなくなりました。これって、ちょっとした成り行きとタイミングからホントのことが言えなくなっていくプロセスを具現化してるんじゃないかと、おもしろくもあったのだけれど、「桐子さん、イエーイ!スガシカオ最高!」も伝えられなくなってしまうのはさびしいので、やっぱり発表しとこ。ねじまき句会・瀧村小奈生です、としか言えない選ですよね。結果が発表されて仰天しました。すぐに、当然かとも思いました。複雑な心境です。とりあえず、ここまで書くのが現状いっぱいいっぱい。桐子さん、「スガシカオ」の句、あちこちから、ヤラレターッ!って快哉を叫ぶ声があがってるはず。少なくとも、わたしは相当にやっつけられました。今度、生中1杯おごります。アサヒ?プレモル?エビス?「どれでもいいよ。」って桐子さんがおっとり笑ったら、まとめて全部おごります!

2014年8月25日 10:32

ところてんところでという始め方    二村典子

(朝日新聞2014.6.24「(あるきだす言葉たち)しんとして」より。)
言わなくてもいいことかもしれないけれど、俳句です。二村さんの音はいつも楽しい。「ところてん」「ところで」なのだが、駄洒落だとはまったく感じない。わたしたちにとって、音の類似に注意が向くのはとても日常的なことである。ひとつの言葉が、音の類似によってまったく無関係な別の言葉(事柄)を想起させるのはよくあることなのだ。駄洒落にならないのは、配置された言葉の選択によるのだと思う。二村さんの音は、つぶやくような歌うような音である。楽しい。楽しくてちょっとさびしい。ひとつの風景に、ひとつの動作に、世界とのわずかなズレを感じたときにもれてくる音。そんな気がする。

気をつけて勢いつけてかき氷   二村典子

2014年8月22日 18:20

蚋は噛む唯一無二のこととして    小奈生

蚊は刺す。攻撃として。蜂も刺す。防御として。ブユは、どうみても「噛む」だ。あれは攻撃なのか防御なのか。ちゃんと調べてみなくちゃ。夏休みの自由研究としては成り立つのかなあ。

2014年8月19日 11:02

「川柳って何?」にお答えできる本です。    東海柳壇

(朝日新聞2014.8.14)
朝日新聞の東海柳壇で「川柳ねじまき」#1を紹介していただいた。さっそく昨日のうちに何冊かのご注文をいただいた。ありがたい。うれしい。新聞では、上記のように紹介されていた。紙面では文字数の都合もあると思うので、わたしなりの見方をもう少し付け加えておきたい。「川柳って何?」は川柳を書く者たちが常に発している問いだと思う。もちろん、ねじまき句会のメンバーも同様である。だから、考える。考えながら川柳を書く。書けばまた問いが生まれる。これでいいのか?「川柳って何?」ゲームの攻略本ではないので、その答えがまるまるこの雑誌の中にあるわけではない。しかし、少なくともここにある川柳は、その「何?」を求めながら書かれた作品である。句会の実況も対談も、その問いを含んだ発信である。とりつくシマのないようなこの問いに浮かぶ一本の流木が、この本の中で示される答えなのではないかとわたしは思っている。ひとつの答えは新たな問いにつながるだろう。でも、それが川柳を書くということなのではないだろうか。

2014年8月15日 09:48

あ、わわ、正誤表、しかも2枚。

西原天気さんが「ウラハイ」で、丸越のお漬物といっしょに「川柳ねじまき」を紹介してくださいました。本の写真も。そして、本といっしょに2枚の正誤表が!いや、2枚は明らかに誤りです。わたしの不手際です。申し訳ありません。正誤表自体が痛いのに、2枚も入れてしまうなんて。正誤表が必要な事態であるとわかったとき、自分のいたらなさと、信頼してくださった人たちと箱の中に息をひそめるまっさらの本たちとへの申し訳なさで茫然としました。「とりかえしがつかない」ということを実感することは、ほんとうに悲しいことです。痛恨の思いで、1冊1冊に正誤表を同封しました。きゃー。その正誤表に2枚まとめて再会してしまいました。肝に銘じます。ありがとうございました。
ところで、丸越のお漬物はマジ名古屋発です。わたしも茗荷は大好きです。セロリもいけますよ。

2014年8月14日 17:51

あやふやな海岸線をもつからだ    小奈生

(「川柳ねじまき」#1より。)
柳本々々さんが、丁寧に「川柳ねじまき」#1の感想を書いてくださっている。ありがとうございます!わたしの30句についての感想を読ませていただいて、はっとした。そうか、そうも読めちゃうんだ!わたしの頭のなかに、そういう発想が微塵もなかったことがあまりにも迂闊で恥ずかしい。アンタガソンナアヤフヤナ海岸線ナンテモッテルカラワルインデショ、なるほど。私が考えたのは、単に表記の問題で「身体」「体」「躰」「體」とならべてみて、あやふやさは平仮名表記と「からだ」を選んだ。結果、意味があやふやになったのではどうしようもない。反省。どちらの意味にもとれることを意図していたならまだしも、そのことが想定外だったことがいかにも迂闊である。信頼できる誠実な読み手は、大切なことを気づかせてくれる。柳本々々さんに感謝。

2014年8月13日 08:30

かもしれない人がひゅんっと通過する    小奈生

(「川柳ねじまき」#1より。)
表紙モデルのさらちゃんが、わたしの30句の中でいちばん好きだと言ってくれた。御前田あなたさんが、ツイッターで最初に拾ってくださったのもこの句だったと思う。そういえば、なかはられいこさんが30句につけてくださった評のなかでもこの句に触れていて、初めて読んだときに、「ふーん、そうなのか。」と思った。わたしの全く個人的な風景が、受け入れられる、つまり他者のものになり得るというのは、頭ではじゅうぶん理解できるけれども、実感を伴ったという意味では発見である。いまさらに、改めて自分自身で一句を見直してみることになる。風景だから可能だったのかもしれない。もし、個人的な感情だったら、「ごめんなさい。失礼します。」と拒絶されたかも。いずれにせよ、他者の目を通して自分の句を見る機会を得られたことはありがたいことである。

2014年8月12日 11:39

ほぼまるい不定愁訴のような月    小奈生

(第112回ねじまき句会より。)
今週は、ねじまき句会の投句締切だ。1週間前投句だからね。とりあえず、忘れてはいない。忘れてはいないが、準備ができているわけではない。夏休みが始まると、とにかく忙しい。おまけに思いがけないことも勃発する。今朝起きたら左目が赤く腫れている。ゆうべ、虫に刺されたかなあとは思ったのだが、やられた!気休めにオロナインH軟膏を塗っておく。眼帯をして隠すこともちょっと考えたが、かえって目立つのでやめた。不定愁訴を感じる余裕もない。こんなときにできる句ってどうなるのだろうか。

2014年8月 8日 22:44

なすの煮浸しここにしかない夜となりし    八上桐子

(第112回ねじまき句会より。)
しみる食物というのがあるように思う。口の中に入れた瞬間に、小さな世界がひらくような。香、温度、食感というその食べ物総体ががつくりだす世界だ。そのことによって、現在自分が存在する夜のこの瞬間が「ここにしかない」ものとして規定される。「なりし」という文語表現の連体形止めもその夜の特別な感じを構成する不可欠のファクターになっている。実は、この句会の前夜、わたしはなすの煮浸しを食べてからだの中に煮浸し感を保有していたので、さらに共振してしまったのかもしれない。

2014年8月 6日 09:39

七月の七がちからをふりしぼる    なかはられいこ

(第112回ねじまき句会より。)
シチ、シチと繰り返し言ってみる。やっぱり力がいる。シチ、シチ。こういう句、大好き!わたしが力をふりしぼるんじゃない。「七」がふりしぼるのである。しかも、「ちから」と平仮名表記される弱そうな力を。もちろん、実際にはわたしがなけなしの力をふりしぼって頑張っているわけだが、ちからをふりしぼる主体を七月に置き換えてしまうことで、わたしをはじめぎりぎり頑張っている人たちは頑張る側から頑張る人を見る側に移って、しばし一服できるのだ。単純でうつくしい句だと思う。シンプルな句は素材の力が勝負だ。「七月の七」を発見できなければ、この句は生まれない。そういえば、七の字のかたちは、頑張るポーズの腕のようでもある。

2014年8月 4日 22:56

全方位的に完璧な煮くずれ    小奈生

(第112回ねじまき句会より。)
選評のときに、八上桐子さんに「これ(料理として)全然だめでしょ。完全な失敗ですよね。」と言われて、思わず噴いてしまった。あ、そうか。自分では、そんなふうには考えてもみなかった。わたしは、煮くずれたところ、わりに好きだから。味も口の中にいれたときの食感も。完璧な煮くずれと大真面目で向かい合ってできた句だ。だからおもしろがってもらえたのかなあ。でも人に笑ってもらえる句がつくれたことが、うれしかった。意図的じゃないところが問題かもしれないけれど。

2014年8月 1日 10:50