落ちていた銀の月なら煮沸する    ながたまみ

(第112回ねじまき句会より。)
「銀の月」だなんていいものが、なんとひょっこり落ちているなんて、しかもそれを拾ったのだからかなり幸運なことだ。問題はここからの対応である。落ちていたものは汚れている。ばい菌いっぱいかも。→消毒しなきゃ!→煮沸消毒、煮沸、煮沸。→にっこり。いかにもまっとうな対応にくすりと笑ってしまうのだ。仮にも銀ですよ。仮にもお月さまですよ。もうちょっと、やりようってものがねえ、と突っ込んだときに、「くすり」が訪れる。こういうまっとうさを、わたしはいとおしく思う。

2014年7月29日 10:26

川の名を交互に唱えながら、秋    なかはられいこ

(第7回ねじまき句会より。)
初めて参加した句会の題詠から。初めてお会いするなかはられいこさんはとてもチャーミングな女性だった。こわかったらどうしようなんて馬鹿なことを考えていたわたしは、とりあえずほっとして席についた。題詠と雑詠の作品が無記名でならんだプリントが配られて、言われるままに4句ずつ選ぶ。初めてなんだから、基準も何もあるはずがない。あるのは好みだけである。その中でいちばん好きだった句。「きそがわ」「ながらがわ」「いびがわ」「しなのがわ」「うじがわ」・・・・こんなふうに交互に唱えながら歩く。もっとローカルな小さな川の名前も。だれと?父と娘かなあ。恋人どうしかも。読点が打たれて「秋」である。日常の時間が、くっと動きをとめて、なにかがほどけるようにゆるやかになる。そんな不思議な気がした。なかはられいこさんの第一印象?「無防備そうな人だなあ。」だったと思う。だけど、そういう人だからこんな素敵な句が書けるにちがいないと思ったことも間違いない。

2014年7月27日 14:47

いちのみや雲を踏んだらえちおぴあ    荻原裕幸

(第7回ねじまき句会より。)
2004年9月7日、初めて参加したねじまき句会。とても緊張して出かけた。なかはられいこさんの掲示板に書き込みをして間もないときだった。「一度遊びに来てください。どうせなら句もつくってきてね。」とメールをいただいたのだったと思う。得体の知れぬ五七五をぶらさげて何だか参加してしまった。そのときの荻原裕幸さんの雑詠の句である。ナニコレ?と思いながら、惹かれて1票を入れた句だ。そうしたら、選んだ理由を言わなければいけなくて、おおいに弱った。一宮はわかるけど、雲は踏まないし、エチオピアじゃないし。つながりようのないものがつながってしまう感覚を取り出すおもしろさに惹かれたのではなかっただろうか。てきぱきと句会を進める荻原さんの顔をまじまじと見ながら(失礼なことです。申し訳ありませんでした。)、「皮膚がうすいなあ。無駄のない人なんだろうなあ。」と思ったことを覚えている。

2014年7月25日 18:22

曲がりたい泣きたい中央分離帯    なかはられいこ

(「脱衣場のアリス」より。)
「曲がりたい泣きたい」と言っているのに、「曲がれない」「泣かない」を大前提として読んでしまう。そして、だからこそ共感がある。曲がれない泣かない人たちが、この言葉から力をもらうことができる。読みながらどきどきした。「脱衣場のアリス」は、わたしが初めて読んだ川柳句集である。また、川柳を書き始める前に読んだ唯一の川柳句集でもある。読み返すたび、10年前の自分の心の揺れぐあいまでよみがえってくる気がする。最近、御前田あなたさんが、ツイッターで「脱衣場のアリス」をとりあげていらっしゃる。中でも対談からの引用が多いのがうれしかった。ねじまき句会に参加するようになって、川柳を書き始めたものの、「川柳ってなに?」という問いはふくらむばかりだった。そのころ、この対談を何度も読み返した。穂村弘さんの言葉が胸に残った。「いつも最高の場を想定して書けばいいんじゃないかと思うんです。実際には存在しないほどの最高の場に向けて、最高の言葉で書けばいいんじゃないかと。」今読むとさらにどきりとする。

2014年7月24日 15:26

蜚蠊の自然死をティッシュでくるむ    小奈生

今朝、1階に下りて行ったら、暑苦しい廊下の仄暗い隅でゴキブリが横向けに倒れていた。え?こんな姿は初めて見る。静かな光景。なにかわからないけど、とても不思議な気がした。

2014年7月22日 11:56

NIPPONを意識しながら鼻をかむ    なかはられいこ

(川柳「ねじまき」#1より。)
というわけで、川柳「ねじまき」第1号が完成しました。昨日の句会で、出席メンバーに手渡し。ようやくようやくです。川柳を書いていることを話すと、友人たちは一様に聞いてきます。「川柳ってどんなの?」「川柳と俳句ってちがうんだよね?」あるいは、「ああ、あれおもしろいよね。サラ川だっけ?」などとも。いつもうまく説明できなくて困っていました。だから、わたしはこの本を今まで川柳も俳句も短歌も書いたことがない人にもたくさん読んでもらえたらうれしいなあと思っています。ねじまき句会という場でつくられている川柳を一度読んでみてもらえたらと思うのです。「へえ、こういうのも川柳なんだ。」の先に、読んでくださった方がどんなふうに感じるかを、まっすぐ受け止めたいと思います。

2014年7月21日 13:53

五七五たまに七七また然り    小奈生

日常の中で「ん」とか「あ」と思う風景(できごと)に出会ったら、とりあえずケータイのメモ帳に突っ込んでいる。いきなり言葉がやって来ることもあるし、なんとかこのことを言語化したいと必死に言葉探しをすることもある。五七五のかたちになることもあれば、単語や短いフレーズのこともあり、七七がついてしまうこともある。なんでもかんでもとっておいて、ときどき整理する。削除しきれなかった五七五七七を投稿したら、朝日新聞の東海歌壇で加藤治郎さんが拾ってくださった。ありがとうございます。

日常にわたしをぜんぶあげたから紫陽花になることもできない   小奈生

2014年7月17日 22:21

ソーダ水口にふくんで待ってみる    小奈生

暑い。暑いがアイスコーヒーは苦手である。「暑いねえ。」と言いながら「ホット。」とコーヒーを注文してしまう。あまりに喉がかわいているときや、ホットコーヒーを注文する気力がわかないとき、「ん。」と言葉に詰まる。ない。頼むものがない。で、「ソーダ。」となる。何でもなさそうで安心だから。たまに、「え?」と聞き返される。クリームソーダはあるけれども、ただのソーダ水はないときがあるのだ。クリームを入れなければいいだけなのにと思うが、お店にはお店の事情があるのだろう。口の中でしゅわしゅわするだけの何でもない液体。なぜかたいていは緑色の液体。困ったときのソーダ水なんだけどなあ。

2014年7月15日 16:40

世間との通信断ってネギ刻む    丹下純

(朝日新聞「東海柳壇」2014.7.10より。)
ネギを刻むという行為はとても日常的なものである。その普通の行為を「世間との通信断って」と意識したときに世界は新しい顔を見せる。おおげさなようだけれど、「世間との通信断って」は一面の真実である。。野菜を刻んでいるときって没頭するのですよ。そして刻んでいるうちにけばだった心がおだやかにまるくなっていったりするものなのだ。忙しくていらいらしているようなときは特にそんな気がする。これもまた生活の知恵だろうか。

2014年7月14日 16:38

なだらかにくしゃみが消えていった場所    小奈生

息苦しいような気がして、なになに?とやっていたら、鼻がつまっていることに気づいた。息を吸おうとしても機能していない。慌てて耳鼻科に行った。先生は、鼻と喉を観察した結果、必要な処置を指示し薬の処方をカルテに書き込み、静かに「お大事に。」とおっしゃっる。喉の吸入を終え会計をすませて帰ろうとしたが、思い切って受付の女性にたずねた。「すみません、わたしはどこが悪くて何のお薬をいただくのでしょう。」彼女はにっこりと笑って「そうですよね、気になりますよね。」と言うとカルテをチェックしてくれた。「アレルギー性鼻炎と急性咽喉炎ですね。お薬の詳細は薬局で聞いてください。」「はい、わかりました。ありがとうございます。」なんの不備もない。でも、なんだか違和感がある。この違和感は昭和的なものなのだろうか。

2014年7月13日 23:56

海原へジュジュジュジュジュジュと日が沈む    金沢市兵衛

(朝日新聞「東海柳壇」2014.7.10より。)
中七の潔さに脱帽した。このジュジュジュは必須である。これより短ければ、海原の大きな水平線にまず下辺が触れ、ゆっくりと沈んでいく太陽の実景にそぐわない。ジュジュジュはそれを見つめる人の心の中でも共鳴音をたてる。複雑な一日の終わりに冷まされていくものがある。そして、この句を読む者の心にも響くジュジュジュである。こんな大きな日没の景色を最近見ていないなあと改めて思う。
まったくどうでもよいようなことなのだが、「東海柳壇」の真上にある「スワ氏文集」のこの日のタイトルが「ゴキゴキゴキゴキゴキ」と異様な回数のゴキだったので、ちょっとおもしろかった。そんな日だったのかも。

2014年7月12日 11:27

遺漏なく台風の日に煮るかぼちゃ    小奈生

台風が接近中なので家から外に出ない。スープと煮物とサラダをつくって、朝から黙々と野菜とあそぶ。窓に吹きつける風の音がやはりふだんとは違う。何も言わずに刻んだり煮たり混ぜたりする。まるで何かを待っているみたいだ。近づいて来る台風を?わからないけれど、台風の前はいつも気持ちが同じ傾き方をする。

2014年7月10日 13:49

弔いの猫たちがゆく言語域    柳本々々

(柳本々々「あとがき全集。」より。)
柳本々々さんが、猫をめぐる短歌・俳句・川柳についての考察を記事にしていらっしゃった。すごいなあ、猫も々々さんも。わたしには猫コンプレックスがある。小さい頃からずっと犬と一緒で、これまでの人生で猫と過ごしたのは大学時代の4年間だけだ。お世話になっていた伯母が白猫とキジ猫を飼っていた。チョンとチビという名をつけられて、初対面のときわたしは、そんな名前でいいのといらぬお世話なことを思ったのだが、彼らはきわめて堂々と自由に暮らしていた。飼い主である伯母も猫に劣らぬほど飄々かつ堂々とした人だった。誰かに「わたし猫が好きなの。」と言われるだけで、もうその人には絶対にかなわない気がしてしまう。憧憬と羨望と嫉妬の入り混じった複雑な感情が押し寄せる。そのわたしが、たった一度だけ(たぶん)おそるおそる人前に出した猫の句を々々さんが拾ってくださった。ありがたいというか何というか、かなり恐縮した。

国境も仔猫も軽く踏んじゃって   小奈生

2014年7月 8日 13:50

こうみえて煩悶している夾竹桃    魚澄秋来

(第30回ねじまき句会より。)
きのうの自分の句がいつ書いたものだったのか気になって探してみた。2006年ですって!8年前とは驚き。自分の句の隣に並んでいたのがこの魚澄さんの句である。いま見ると、まるで対のようだ。返歌ならぬ返句?清記した人の意図が入っているのだろうが、こういうのも句会での題詠のおもしろさである。そうか、ああみえて煩悶しているのかと妙に説得されてしまう。一筋縄ではいかない。だから世界はおもしろい。夾竹桃を見る目が少しやさしくなりそうである。

2014年7月 5日 14:07

夾竹桃いいわけぐらいしなさいよ    小奈生

ずいぶん前のねじまき句会で、題詠「夾竹桃」に出した句である。夏になると、否応無しに夾竹桃の毒々しいピンクを目にすることになる。かなりの時間が経過したけれど、夾竹桃に対する感触は、この句のときも今も同じだ。あの色と勢いに気圧されてしまう。ぐっとくる色が目に入ると、心が3ミリくらい後ろに引く感じである。うちには夾竹桃はないが、その代わりというのでもないけれど松葉牡丹が頑張っている。朝から華々しい色の花をいっぱい咲かせる。まいったなあ、という感じだ。でも、夕方になると、しゅるしゅると花弁を閉じて眠りにつく。その姿を見ると、なんだかいとおしくなって、「明日もがんばってね。」などと声をかけてしまう。かなりしたたかなヤツである。

2014年7月 4日 19:48

坂道の底にいびつな交差点    小奈生

(第111回ねじまき句会より。)
歩いたり、バスや電車に乗ったりすると、いっぱい拾いものをする。それは風景だったり、誰かに思いがけず出くわすことだったり、カメだったりするのだけれど、どれもこれもとてもありがたいことだと感じる。この交差点も、実際に坂道を下りきったところにある三叉路だ。どちらからきても下り坂の下にあって、道がずれながら交わっている。そこにさしかかって交差点を目にするたびに、何か非現実的な景色に出会っている気がしてしまう。あそこに別の世界への入り口が隠れているみたいな。それぞれに対象となる風景は違っても、風景に対するこういう感覚は多かれ少なかれみんなに共通のものではないだろうか。

2014年7月 1日 10:53