然るべき傾斜をもっている夜だ    小奈生

(第111回ねじまき句会より。)
ちょっと前に、思いがけずある人の自筆の文字を見ることがあった。ああ、こんな字を書く人なんだ、とぼんやり見ていたら、なんだかざわつくのである。なに、これ?不思議な波紋が心にひろがっていく。その文字に引っ張られるみたいに、いろいろなことを思い出した。なつかしいことも、思い出さなくていいこともいろいろ。その字を書いた人とは何の関係もないことが、するすると引っ張り出される。考えてみると、手書きの文字を見る頻度は極端に少なくなった。よく知っている人でも、その人の書く文字を知らないことなど、ごく普通にある。メールで何でもやりとりしているようだけれど、違うのだなと漠然と思った。手書きの文字はセンチメンタルなものなのだ、きっと。

2014年6月30日 15:58

視界の端に山脈があり、曇る    なかはられいこ

(第111回ねじまき句会より。)
7・7・3だが全体としては17音になっている。リズムが許容できる気がするのはそのせいだろうか。視界の端に何かがある。それが何なのかは気づかないことも多い。いま、視界の端に山脈があることに気づいた。まばたきをする。次の瞬間にはその山脈は消えて曇り空だけがある。この時間の経過が、読点の意味ではないかと思う。首を回して辺りを見れば、本当に山脈があるのかどうかは確かめられる。しかし、それはもうこの句の世界のことではない。一瞬前に見えたものが、しかも視界の端だったので確信の持てないものが本当にあったものなのかどうかわからなくなってしまう感覚を言うところまでがこの句である。その一瞬だけを取り上げるところがおもしろいと思った。

2014年6月27日 22:47

紫陽花へ向く六月の頭蓋骨    八上桐子

(第111回ねじまき句会より。)
6月の町を歩くと、あちらにも紫陽花、こちらにも紫陽花できりがないほどだ。色もさまざま、大きさや形もこんなに種類があるのかとおもうほど多様である。塀越しに見える紫陽花の花は、たしかに頭蓋骨のかたちに似ている。丈の高い茎のてっぺんで、いくつもの頭蓋骨がゆらゆらしている。紫陽花をじっと見ていると、自分の頭蓋骨のかたちが意識されてくるようだ。紫陽花と頭蓋骨の連鎖がおもしろい。

2014年6月26日 22:20

別れ際修正ペンを渡される    青砥和子

(第111回ねじまき句会より。)
別れ際に渡されるものが、あんまり意味ありげでも困る。というか、ちょっといやだ。かといって、あたりまえすぎては川柳にならない。その点、「修正ペン」はちょうどよいのではないだろうか。渡された人は、「え、なに?」と戸惑う。何か悪いことしただろうか。意味がわからない。でも、修正ペンで直せる過ちなど所詮たいしたものではない。「ま、いいか。」程度なのだ。やはり、修正ペンのいい加減さ具合がよいのだと思う。

2014年6月25日 17:45

日曜のわたしは蔓に巻かれます    米山明日歌

(第111回ねじまき句会より。)
「蔓に巻かれ」ることをどうとらえるかという点で読みが分かれそうな句だと思う。例えば、日曜には孫たちが来てまとわりついてくるような絵も想像できるのだが、わたしは、そうではないと読みたい。日常は7日単位で過ぎていく。休日としての日曜、区切りとしての日曜。いろんなことをしようとして結局何もせずに終わる日曜。「蔓→はびこる、ややこしい」という連想が、イメージを作り上げる。くたくたの日曜は、蔓にでも巻かれたように手も足も出ずに過ごすのだ。しかたない、蔓に巻かれたんだから。がんばることを放棄して巻かれたままになっているのである。無為に終わってしまう日曜のさびしさと、まあいいかといういい加減さの両方が伝わってきておもしろい。

2014年6月24日 09:25

遠ざかるテールランプのような人    萩原信男

(朝日新聞「東海柳壇」2014.6.19より。)
人と人との間には惜しむ情が存在する。「遠ざかるテールランプのような人」との関係は、そういうものなのではいかと想像する。いつまでも後ろを見送って、すっかり見えなくなっても、まだ残像を追っているような感じが伝わってくる。見送る視線は恬淡としていて厭味がない。「遠ざかるテールランプ」だなんて歌詞にでもありそうで、使うのに勇気のいる言葉だが、ここではとてもうまく機能していると思う。「~のような人」と、人の形容に使われたことが功を奏したのではないだろうか。

2014年6月22日 18:20

ひらがなで話すと時間かかります    村瀬雅美

(朝日新聞「東海柳壇」2014.6.19より。)
「ひらがなで話す」のは誰だろう。おじいちゃんかおばあちゃんと孫、あるいは年配の方どうし。第一印象は後者である。その理由は、とても個人的なものなのだが、わたしの知っているおばあちゃまたちは、メールを打つとき一様に句読点抜きの平仮名なのである。(不思議なことに、おじいちゃまは漢字仮名交じりの文面だ。)解読するのに少々時間がかかる。その一面ひらがなのメールがすぐに思い浮かんで、とてもほほえましかったのである。果たさなければならない用件のある会話ではない、記憶をだどりながらのおっとりした会話。ときには、何度も同じことを話したり、かみあわなかったりもする。「時間かかります」とはいうものの、時間がかかることを嫌がっている様子もない。なんだかいい感じじゃないかと思う。

2014年6月20日 16:56

いのります点になるまでまるまって    小奈生

父がテレビのデータ放送の利用法をマスターしたと言って実演して見せてくれた。そこそこの熱心さで画面に目を向けていると、切り替わった画面の左端によく知った名前がある。日本プロゴルフ選手権、今週の男子ツアー予選第1日の結果だ。ああ、うちのテレビだから、すぐに名前が出るように設定してあるのかと、あり得ないことをフツーに思いかけて叫んだ。トップだよ、トップ!教え子の名前がトップにあるのだ。まだ1日目だし、でもトップだよ。それから、もうドキドキして落ち着かない。今ごろ本人はもっとドキドキ緊張しているのだろう。明日、あした、明日はどんな日になるのか。叶うなら、緊張やらドキドキやら邪魔なものは全部わたしが引き受けるから、できるだけ落ち着いて悔いのないプレーができるように祈りたい。ほんとうに大切なことは、何にも手出しができなくて、でも、だから大切なかけがえのないことなのだと思う。叶っても叶わなくても、いのりまくるよ。

2014年6月19日 16:12

独りでは上手くできないシップ貼り    三好光明

(朝日新聞「東海柳壇」2014.5.29より。)
日曜日のねじまき句会で三好さんにお会いした。面倒見がよくて誠実で、作品と人柄との間にまったくギャップのない方である。家に帰って、三好さんのことを考えていたら、「シップ貼り」の句のことを思い出した。この句にも衒いや気取りなどといったものはまったくない。実にすがすがしい句である。ときどき、誠実な性格が災いして、「三好さん、それは説明しすぎですよ。」と思うこともあるのだが、まっすぐな書き手はまっすぐな読み手でもあって、三好さんに自分の作品を選んでもらえるかどうかは、おおいに気にかかるのである。三好さんが反応しないということは、こちらに何らかの落ち度があるのだ。今月の句会は、どうしても外せない所用があって、終わりがけぎりぎりに滑り込み参加した。月に一度のねじまきを欠くのはなんとも悔しい。

2014年6月18日 16:42

らしいこと言うな欅の真下では    小奈生

きょうは午前中に欅の美容室に行ってきた。入口に大きな欅が植えられている。建物と電線の間で、建物側に傾いておおいかぶさりながら二階の屋根の上まで伸びている。電線側はあぶなそうだから木も遠慮しているのだろうか。この木の下で一度上を仰いでからお店の中に入る。お気に入りのルーティーンである。欅にも会えたし、髪もさっぱりしたし、夜まで頑張って仕事しよう。

2014年6月14日 13:15

虹消えるまぶたあること思い出す    なかはられいこ

(第110回ねじまき句会より。)
「虹消える」はちょっとドキリとする。私には警戒警報の鳴る表現である。希望を失うとか夢をなくすとかいうことを思わせる「虹」だからだ。しかし、「まぶたあること思い出す」とくるので、え?そういうことなの、なあんだと脱力する。ある意味ほっとする。この落差のつくりかたがうまいと思った。虹が消えたのは、まぶたを閉じたからだったなんて、絶妙のボケである。と同時に、単なるおかしさだけでないものが伝わってくるところが「虹消える」の効果だと思う。日常のあたりまえの一瞬がいとおしくなる。

2014年6月13日 22:24

つなぎ目が青い六月の肋骨    小奈生

入梅。身勝手な好き嫌いで言うなら、うれしくないと断言できる。しかも今年は梅雨が長いとか。8月まで続くという予想も聞いた。入口でいきなりへこたれる。さっきまでは、なんとか我慢していた空から大粒の雨が落ち始めた。そんなに暦に忠実じゃなくてもいいんじゃないか。もはや鬱陶しさがふくれあがっている。空の色も薄汚れた灰色である。

2014年6月11日 17:44

ショコラ・オ・なんだってできそうな朝    小奈生

日曜日の名古屋駅構内を桜通口から太閤通口まで通り抜けた。午前11時。金時計周辺の待ち合わせ区域は平日の何倍にもふくれあがっている。誰かを待つ人と誰かに待たれる人がこんなにもいることに圧倒される。わたしも誰かを待っているふりをして紛れ込んでみたくなる衝動をおさえ、背筋を伸ばして通過する。構内は、ものすごい人である。途方もない数の人とすれ違う。銀時計周辺も普段より待ち合わせする人の数は多い。しかし、こちらはさほど不思議な感じがない。新幹線口だからだろうか。れっきとした待ち合わせ事情が存在するからかもしれない。人混みを歩くのもなかなかおもしろいものである。
構内を歩いているときに現れた句を書き留めておく。柳本々々さんの「リンス・イン」の句の響きが頭のどこかに残っていたのかなと思う。だから拙い返句ということで。

2014年6月 9日 11:40

あらかたはニセアカシアの夜の息    青砥和子

(第110回ねじまき句会より。)
実は句会で出会ったとき一目惚れした句なのである。でも一目惚れには変な警戒心が働く。句会のときには「好きです!」と告白できずに悔いを残した。「あらかたは」という口調や「ニセアカシア」というアイテムにダマされてるだけじゃないかと疑ったり、説明のつかない'好き'だけでいいのかと足踏みしたりした。今から思えば余計なことであった。地団駄モノである。夏の夜。熱と湿り気をふくんだ暗闇。その中に白い花の房が浮かび上がる。かすかな芳香。この夜のおおよそはニセアカシアの吐く息に支配されている。いわゆるアカシアのことだが、正式名称はニセアカシアで、その「ニセ」が効いている。夾竹桃にしろニセアカシアにしろ毒をもつ木はそれらしい雰囲気を持っている。「夜の息」が、その夜の空気を肌に感じさせる。

2014年6月 6日 19:53

黒いタネ吐き出す夜間通用口    八上桐子

(第110回ねじまき句会より。)
「夜間通用口」をとらえたところがうまい。そこから、スイカのタネをぷっぷっと吐いたときみたいに、吐き出されてくるもの、たぶん人なんだろうけど、その人間らしからぬ描写もおもしろい。病院のあるいはビルの夜間通用口。そこには昼間とちがう顔がある。昼間のしゃきっとして清潔感漂う明るさはもうない。疲労感ややるせなさや一種あやしさを伴うような、まさに「黒い」ものが動いているのだ。昼間に見ると、しらじらしい感じさえする「夜間通用口」の文字が、夜の闇の中で濡れた目を光らせている。ちょっとこわい感じがするのは、そこにものごとの本質の部分が透けて見えるからなのだろうか。

2014年6月 5日 15:20

家中を焦がす母さんの甘露煮    北原おさ虫

(第110回ねじまき句会より。)
甘露煮はちゃんとお鍋についていないとね。しっかり煮詰めたいけど、うかっりすると、ほんのちょっとのことで焦げるのです。母さんという人はそういう粗相もするのです。ああ、もう醤油やら砂糖やらの焦げついた匂いがしてきました。そのうえ、母さんが鍋を焦がすと家中が大騒ぎ。家族は嵐に巻き込まれることになります。母さんという人はそんなふうに家族を巻き込むのです。「家中を焦がす」が完璧な母さんワールドを演出しています。

2014年6月 4日 17:19

ともだちがつぎつぎ緑になる焦る    なかはられいこ

(第110回ねじまき句会より。)
なんなんだろう。この「焦る」感の伝わりようは。「緑」の漢字表記がやけに強烈で、まさに緑であると受け止めるしかない。確かなことは、つぎつぎに「ともだち」が緑になっていることと、自分が緑ではないことだ。ともだちだった人がわたしとは違う世界の住人になっていくことに焦る事実だけが伝えられ、読み手は何の具体的な状況もわからぬまま、その焦りだけを生々しく感じ取る。つまり、この焦りの感覚は、意識しているにせよそうでないにせよ、私たちの深部に共有可能なものなのである。そういう何かを掘り起こすという点で興味深い句であると思う。

2014年6月 3日 10:52