二人には磁石のような距離があり    杉浦博和

(朝日新聞「東海柳壇」2014.5.29より。)
この距離はNとNまたはSとSの距離のことだろう。NとSはくっついてしまうので、距離はゼロだから。磁石のような距離を持つ二人の関係に興味がわく。一定の距離以上には決して近づかないように退け合う力が働いているということは、緊張感のある特別な関係なのだ。くっついてしまえばそれまでだが、退け合う力は常に意識せざるを得ない。人と人との関係は、組み合わせごとにみな特別だけれど、磁石のような距離を持つ人との関係は、それを意識する人にとって大切なものにちがいない。あるなあ、と自分のことを考えてみたりする。
ふとデスクの横のカレンダーを見ると、きょうで5月はおしまい。明日からは6月。なんだかゴチャゴチャと長い1か月だった気がする。とりあえず、暑さはしっかり夏である。

それはそれは礼儀正しく五月ゆく    小奈生

2014年5月31日 14:13

パイナップルの身辺調査三年目    二村鉄子

(第110回ねじまき句会より。)
わからない!だけどグイッと引っ張られる。この力はどこからくるのだろう。何かの比喩であるとかどうとか説明すると台無しになってしまうもの。わたしの中にも確かにあるもの。哀しいような可笑しさ。そういうささやかなものが全力で反応する。正体不明だがおろそかにできないと思う。
ところで、きのうツイッターで初リツイートした!何事にも先達はあらまほしきことなので、高校生に指導してもらう。リツイートは「拡散」なのだそうだ。ふん。「そんなことして変なこと起こらない?」困惑顔で「起こりません!」「どのマーク?」「コレです。」安全そうなもの(?)を選んで「じゃあ、これで試してみて。」「いいですよ。」チャ、チャ、チャ。「ひゃー、どうしよう。だいじょうぶ?」だいじょうぶにきまっている。「スゴーイ!」とか言わなかったのが救いだ。当然、相手はまたも困惑顔。というわけで、初リツイートは高校生の指が実行したのだった。しばらくは、のぞき魔的ツイッター利用が続きそうだ。へこむ。

2014年5月30日 10:34

きょうの月のかたちや何かでもめている    小奈生

(第110回ねじまき句会より。)
5月の句会の題詠は「焦」で、こちらは雑詠。句会はかけがえのない機会である。点数が入ればうれしいし、入らなければさびしい気持ちになるのは自然なこととして、それだけでは終わりたくないと思う。だから、できるだけ自分なりのテーマを持って臨みたい。今月は、定型の許容範囲と事実の力。五七五の17音を破ることがどこまで許容されるのか、あるいは許容される場合とそうでない場合の違いについて、読み手にたずねてみたかった。もうひとつは、句の素材が完全な事実・実景である場合、その裏付けを持つ言葉は強度の点で何らかの力を持つのかということ。テーマは最初からことさらにあるわけではなく、半分くらいは句会に提出する作品をつくる過程で出てきているように思う。信頼できる読み手がいる句会だからこそできることである。こんなふうに書くと、余裕の態度のように勘違いされそうだが、とんでもない!ねじまき句会の投句は、毎月、必死で、ぎりぎりで、不安いっぱい。これもまた、信頼できる読み手の存在を意識するからにちがいない。

2014年5月29日 12:00

上へまいります焦げくさい人とふたり    小奈生

(第110回ねじまき句会より。)
エレベーターは密閉式の特殊な空間である。見知らぬ人と二人きりで閉じ込められることも珍しくない。わたしは、たいていはエスカレーターを使う。エスカレーターなどないビルの場合でも、ちょっと迷って階段を使ったりする。目的階に着くまでの気まずい時間はやけに長く感じられる。それが誰かと誰かの人生でたった一度の接点だったりもするわけで、不思議さは半端じゃない。

2014年5月28日 17:21

肩書きも名前もみがきにしんなり    筒井祥文

(「川柳カード」5号より。)
「みがきにしん」をどう読めばいいのだろう。いいもの?よくないもの?えもいわれぬもの?頭も尻尾もないやつだしなあ。だけど鰊蕎麦おいしいよねえ。なんとも言えない中途半端な感触にくすぐられる。あえて「身欠き鰊」としなかったのは、「肩書き」や「名前」が相手だけに、意味がべったりまとわりつくからなのだろう。「身欠き」はちょっと、である。子どものときは鰊が苦手だった。たぶん、独特の風味のせいだろう。「みがきにしん」という単語は、かなり小さい頃から知っていたと思う。でも、「身欠き」という発想がないので、てっきり「磨き鰊」だと思い込んでいた。乾燥した鰊をぴかぴかに磨いて店頭に並べる絵を思い浮かべて、ちょっと尊い食べ物のような気がしていたのだ。それからうんと後のことだが、「身欠き」だとわかったときには、何やら哀しい気分になった。ところで、今の子たちはわかるのかなあ、みがきにしん。

2014年5月27日 14:20

この人もむかしはこども蛇苺    荻原裕幸

(「週刊俳句」369号『世ハ事モ無シ』より。)
子どもという時間と蛇苺が結びつけられたことに共感する。自分だけかと思っていたことがもう少し一般的なことだったのだとわかってうれしい感じというほうが正確だ。わたしにとって荻原裕幸さんは、有名な歌人であり、短歌教室の先生であり(朝日カルチャーの荻原先生の教室に通っていたことがある)、ねじまき句会のメンバーである。もちろん、ずっと俳句を書いていらっしゃることは知っているのだが、いちばん馴染みの薄い部分だ。第一、わたしには俳句のよしあしは全くわからない。うっすらとした好き嫌いがあるだけである。そこで、改めて荻原さんの句をながめてみる。そして、これが川柳の句会に出てきたらどうなのかと考えなくてもよいことを考える。ねじまき句会の雑詠に荻原さんがこの句を出してきたら、「蛇苺」に共感はするけれども票は入れない。もっとも、荻原さんは川柳の句会にこの句を出すことは決してないのだが、その理由はなんだろうと考えてみる。違和感のないことに対する違和感かなあと思う。20句の中には、この句は川柳の句会でも1票入れそうだという句も。

お喋りな柿から順に剝いてゆく

荻原さんに宿題をもらったような気分である。

2014年5月26日 11:23

パク・クネの五月したたる涙かな    小奈生

今朝の妄想的実験結果の記録。起きると、とりあえずテレビをつける。とりあえずチャンネルを次々に変えてみる。きょうは、次々にパク・クネ氏のアップが映し出された。テロップには海洋警察の解体と出ている。大統領の頬をつたう涙。ふうーん、そういうことか。時期が時期だから勘ぐらざるを得ない。

パク・クネのナミダDNA検査

というのが突発的に浮かんだ五七五である。時事句か?ほとんどつくったことがないけれど、そういう範疇に入れてもらえるかもしれない。韓国の歴史ドラマをいくつか見れば誰でもが抱きそうな感想だ。そこから妄想がスタートする。こういうことは俳句の題材にはならないんだよね、たぶん。知識がなさ過ぎてわからない。なんか季語らしきものを入れてもだめだよね、きっと。「かな」とか入れても意味ないよね、絶対。それでできあがったのが上の句である。こいつは川柳の仲間に入れてもらえるのだろうか。いよいよ、単なる五七五型妄想に思えてきた。

2014年5月20日 13:01

懐かしさどこを押しても減る記憶    稲垣康江

(「川柳フェニックス」合同句集第3号より。)
きのうのねじまき句会で丸山進さんから「フェニックス」第3号をいただきました。「減る記憶」は決して忘れっぽくなったというようなことではないでしょう。大切な記憶はあくまでもそっと大切にしておきたいというように読みました。ついつい取り出したくなるけれど、そうするとそのたびに何かが失われてしまうというような。懐かしさに負けてしょっちゅうあちこちを押して大切な記憶を傷つけないようにしなくちゃ、って。

2014年5月19日 14:39

親友を沈めるカルピス瓶の底    久保田紺

(「川柳カード」第5号より。)
親友という言葉を最後に使ったのはいつだっただろう。そもそも使ったことがあったかどうかすら曖昧である。もし、あったとしたらそれは遠い子どもの頃にちがいない。親友だなんて、言葉の意味を考え始めるとなかなか気恥ずかしくて言えないものである。そういう意味で、それはカルピス瓶の底に沈めてしまった言葉なのかもしれない。幼い頃の仄暗い記憶。カルピス瓶の半透明の茶色が浮かび上がる。中に入っている原液はやたら濃密で喉に引っかかるような甘さを持つ。からんころんと氷を浮かべて水で薄めるとおいしいんだけど。カルピスソーダやカルピスウォーターがまだなかった頃の昭和の夏の風物詩だった。

2014年5月18日 04:31

星空のめくるところがわからない    はっぱ

(「川柳カード」第5号より。)
わたしも「めくるところ」をさがしてしまう。めくれないことは百も承知なのに、どうしてもめくれそうな気がする。きょうのような淡い青空には、そういう気持ちは抱かないが、星空やくっきりと青い空なら。それは、完璧なものに対して人が抱く潜在的な不安のようなものなのだろうか。自身の存在の危うさに対して無意識に抱く不安といってもいいかもしれない。「星空の」の「の」が「を」でないことによって、子どもの幼い言葉遣いのような印象を与える。無邪気で頼りない子どもの声が届けられる。

2014年5月17日 10:29

音声案内に従って少年に戻る    小野五郎

(「おかじょうき」2014.4月号より。)
まじめに数えると9・5・8の二十二音から成っていて、相当な字余りである。でも意外に許容できてしまうのは、オン・セイ・アン・ナイ・ニ・シ・タ・ガ・ッ・テ・ショ・ウ・ネン・ニ・モ・ド・ルと十七音もどきの読みが可能なせいだろう。となれば、音声案内という機械的なものとのぎこちないやりとりの感じを表現するのに効果的である。音声案内に従って操作するとき、とらえどころのない不安にとらわれる。少なくとも私は苦手である。現実の手触りに乏しくて、操作しているうちにわけのわからないところへ誘導されてもおかしくない気がする。「少年に戻る」ことだってあるかもしれない。でも、ちゃっかりしてるなあ。少年に戻っちゃうんだもんなあ。タイムマシン級ですよね。

2014年5月14日 16:58

リンス・イン・魂(洗い流せない)    柳本々々

(「おかじょうき」2014.4月号より。)
不思議なささやきのような句です。( )に入った「洗い流せない」こそがこの句のすべてではないのでしょうか。魂についた洗い流せないものに意識が集中するのです。「リンス・イン・」はちょっとした助走のようなものであり、魂から洗い流したい説明のつかない何かのイメージをつくるのに有効なフレーズであると思われます。だって、リンス・イン・シャンプーってどうしようもないんです。シャンプーはしっかり洗い流したいのに、リンスはあまり洗い流しちゃいけないもので、この二つが共存していても困るだけ。リンスのサラサラツヤツヤ効果が期待できません。ちょっと聞くと便利そうで実は意味のないものですよね。たまにゴルフ場のお風呂場にこれが置いてあるのですが、やられた感じがします。「魂」「洗い流せない」の言葉だけが耳の奥に残って・・・あれ?これがリンス効果なのかなあ。

2014年5月12日 16:16

おかあさん 母音をすこし鍛えねば    尾崎志津子

(「Midori」No.619より。)
母音を鍛えねばならぬのは誰だろう。「おかあさん」か、あるいは「私」か。わたしには、後者のように思われる。女性にとって、母親はもっとも身近に同性の生き方を示す存在である。反発を感じるか、共感を感じるか、あるいはその両方なのか、いずれにしても自分の生き方を考えるときに無視できない存在である。「おかあさん」と呼びかける。この呼びかけは、やや距離感を感じる呼びかけである。少なくとも頻繁に会って話すような存在ではない。その母に向かって、「鍛えねば」と自戒めいたことを漏らす。母音の発生が弱くなると、言葉があいまいになる。母音ひとつずつをはっきり発声するように、しっかり生きていかなきゃということなのだろうか。何にしても、やっぱりこういうことを言いかける対象は母親なのだろうなと思う。今年、わたしは母の生きた歳を越える。ここから先は母の経験していない時間である。見えない時間をすすんでいくような気がする。

2014年5月 8日 15:52

まだ耳がオオカミのまま春になる    谷口文

(「Midori」No.619より。)
春はさまざまな兆しとともにやってくる。日差しのなかのほんの少しのぬくみ、建物の線から消えていくするどさ、植物のうすみどり、やわらかさをふくむ風。この句は風を感じさせる。風が耳をすりぬけていった瞬間に春を感じたのではないだろうか。そして、それによって「まだ耳がオオカミ」だったことに気づく。オオカミの耳は鋭くぴんととがってセンシティブなもの。あるいはまだ残る冬。春を含む風に触れた瞬間に、自分の耳が「オオカミ」であると感じた違和感をそのまま受け取りたいと思う。

さっき鳩が電線に止まっているのを発見。つくづくと似合わない。この件に関する女子中学生のコメント;
「鳩って飛べるの?」
「カッコつけてんじゃない。」
そういうことらしい。

2014年5月 4日 13:17

日記には風の音しか書いてない    星井ごろう

(「Midori」No.619より。)
今年で7回忌を迎える義父が倒れたときに、田舎の家を整理しに行った。男性の一人暮らしが長かったのである程度は覚悟していたが、やはり室内は荒廃していた。その家の中に立ったとき、風の音が聞こえたのだ。義父は毎日この風の音を聞いて暮らしていたのかと思うといたたまれなくなった。「風の音」としかいいようのないものがそこにはあった。二階の窓から下を見ると、草が伸び放題になった庭の隅で、蜜柑の木がやけに明るい橙色の実をつけていた。個人的な体験に重ねて申し訳ないけれど、日記に風の音しか書かれていないということがわたしにはとてもリアルであった。

2014年5月 3日 16:49

たとえば愛たとえば象がひざまづく    なかはられいこ

(「Midori」No.619〈ぷれいバック川柳〉より。)
第4回センリュートークで石田柊馬さんが天位に選んでいらっしゃる。こういうフルスイングが私にはできない。ちまちましたところに収まっているばかりでは打破できないものがあるような気がしている。その点、この句のなんと潔いことか!「象がひざまづく」という点で読者のイメージは結ばれている。誰もが、あの象の足の曲がり具合を思い浮かべるだろう。哀しくて愛くるしい姿である。その上に据えられた「たとえば愛」の大胆さ。「ひざまづく」「愛」は、そうはいっても突き放されて、どこか滑稽ささえまとっている。作者と適切な位置を保った「愛」である。でもねえ、なかなか言えないんですよ、愛なんて。

2014年5月 2日 17:14

誰よりも明るい空をポケットに    むさし

(あざみエージェント川柳カレンダー・2014年5月)
やさしさとせつなさのバランスが絶妙だなと思う。ちょっと疲れた人や、ちょっとさびしい人が、思わず寄り添いたくなりそうな句である。でも、ちょっと待てよと思う。空の明るさの比較対象が「誰よりも」って、なんか変じゃない?それは、誰もが空を持っている前提の上に成り立つ比較である。みんな空を持っているけど、その誰が持っている空よりも明るい空を私は持っています。そして、それをポケットに入れているんです。という状況設定が考えられる。大変なものをポケットに入れているものだ。やっかいそう。なんのために?と考えたとき、これが不思議なことに自分のためだとは思えない。こういう構造が共感を誘うのだろうか。ねえ、むさしさん。ギャルソンの黒いスーツを着たむさしさんのポケットの中をのぞいてみたくなる。

2014年5月 1日 16:27