しぐるるや駅に西口東口    安住敦

(「現代俳句」より。)
きょう心ひかれた一句。たいしたことは何も言っていないのに、おもしろいなあと思う。たまたま名鉄電車の中で読んだからとか、鳴海駅に西口と東口があるからとかいうわけでもなく、駅という特別な場所とそこを往来する人々について想像力をふくらませることができる。読む人がそれぞれの実風景を持っていて、それぞれに何かを感じたり思ったりする。
そんなことを考えていたら、ふと思ったことがある。五七五は、まず紙という平面に書かれた文字として存在する。ところが、目を通して読者にとらえられると、その頭の中では空間を浮遊する多面体になっているのではないかということである。わたしの見ている面はAさんの見ている面とはちがうかもしれないし、わたしに突き刺さる頂点はBさんの心を刺した頂点とは異なっているかもしれない。抽象的にしか言えないけれど、五七五の魅力と危険の両方がそこにあるのではないか。そしてひとつの浮遊する多面体になるのは、俳句と川柳が持つ五七五という短い詩型であってこそ可能なことなのではないか。本日の思いつき。

2014年2月22日 12:16

三枚おろしずたずたにおろされるかも    内山孤遊

(「川柳林檎」No.529)
何だかおかしかった。下手な人の三枚おろしは確かに相当悲惨だと思われる。せっかくのお魚もぐちゃぐちゃ。「ずたずた」な状態は容易に想像がつく。しかし、「ずたずたにおろされる」ことを拒んでもいないどころか、そうなったらそうなったで仕方ないと受け入れている「かも」である。「しょうがないねえ。」と笑みが浮かんでいるみたいだ。人と人との関係のなかに、こんなワンシーンもあったような気がするのだ。こんなこともあります、たしかに。微妙な心の感触をきちんと伝えている言葉だと思う。

2014年2月12日 19:21

ひとりいるようなふたりになっている    徳永政二

(「Midori」ぷれいバック川柳より。)
フツーのことを普通に言うことを考えさせてくれる一句である。たとえば、長年連れ添った夫婦などはこんな感じなのだろう。好むと好まざるとにかかわらず、何やら似てしまう。そのことで、余計に別々であるということを意識することもあったりして、さびしさとか安心感とか複雑な思いが揺れている。それが複雑さそのままにストレートに伝わってくるのだ。十七音すべてが頼りないひらがな表記になっていることで、分別臭さとは遠いところにあって嫌みがない。難しいことを、いとも簡単に成し遂げてしまうのだなあ、徳永政二さんという方は。

2014年2月 3日 12:42