夕焼けの底持ち上げてアンニョンハセヨ    小奈生

韓流ドラマブームのときも、関わりなくつつがなく過ごしてきたのに、なぜかここにきて韓国ドラマをよく見ている。全60回程度が普通なのにも驚くが、陰謀と拷問の繰り返しが必須アイテムであることも初めて知った。歴史物しか見ていないので、現代を扱ったものについてはよくわからない。「恋するサムセン」が始まって、ようやく1950年代までこぎつけた。それにしても、これでもかというくらい品性のかけらもない登場人物が必ず設定されているのはなぜなんだろう。けっして悪人ではない。しかし、気の毒なくらい救いがたいキャラなのだ。製作者の悪意を感じるような描きようである。身分が低くて貧乏で悪人ではないので余計哀しい人。日本のドラマには存在しないキャラクターだ。筋立てもお決まりで、まあお決まりの安心感はあるのだが、それだけではない何かにちょっと引っ張られている。

2014年1月25日 19:40

壁がさみしいから逆立ちをする男    岸本水府

(川柳全集④「岸本水府」より。)
壁がさみしい。さみしい壁を飾るオブジェとなるために逆立ちをする男。ふつうであり、どこか異様である。さみしいのは「壁」であり、「わたし」ではなく、逆立ちをするのも「男」であり、「わたし」ではない。そのことがかえって、「わたし」の捉えどころのないさみしさをよく表現している。私が生まれた年に、こんなことを言って壁を見つめていた人がいるのである。

2014年1月21日 18:37

置いてきた弟味の素かけて    久保田紺

(第18回杉野十佐一賞より。)
私が子供の頃、どこの家庭にも味の素は常備されていたのではないだろうか。我が家の台所には味の素はない。味の素一振りに安心を感じる父は今でも愛用している。「味の素」という固有名詞は、言葉として単なる調味料の名という以上の質感を持っている。なぜ「置いてきた弟」と「味の素」がこんなにマッチするんだろうとおもしろい。「味の素かけとけば、ちょっとくらい大丈夫」と、弟は置き去りにされちゃうのかなあ。最初に読んだとき、「置いてきた/弟味の素/かけて」と区切ってしまった。「〇〇味の素」のひとつとして「弟味の素」があるのかと思って、誰にも彼にでも「弟味の素」をふりかけるところを想像した。自分以外は弟もどきばかりという世界ができあがって、「紺さん変だよー!」と言いそうになった次の瞬間「置いてきた弟/味の素かけて」と文字が整列し直したのである。変なのは私のほうでした。申し訳ありません。

2014年1月15日 22:55

三度目は素っ頓狂を前に出す    熊谷冬鼓

(第18回杉野十佐一賞より。)
どういう状況なのか説明せよと言われても困るのだが、ついつい受け入れている。「素っ頓狂」という言葉の力だろうか。普段あまり使うわけでもない言葉がしっかりと生きている。もう三度目だから、「仏の顔も三度」の三度だから、もうこれは「素っ頓狂」に出てもらうしかないでしょ。前に押し出された「素っ頓狂」の文字通り素っ頓狂な表情が想像されてクスリと笑わされる。言葉って不思議だなあと改めて思う。

2014年1月13日 13:38

飛び降りるときは素直な棒になる    重森恒雄

(第18回杉野十佐一賞より。)
一瞬ドキリとする。飛び降りるときって、まさか・・・。不穏で不安な気持ちながら、「素直な棒になる」の説得力にうなずいてしまう。わたしも、この「素直な棒」の感触を知っていると思う。それは、何かを決断したあとの平らな気持ち。「清水の舞台から飛び降りる」つもりになったときには、素直な棒になっているにちがいない。まっすぐで、何ものでもないただの棒。それゆえの強さ、それゆえの悲しさ。あたふたしたり、おろおろしながら生きているけれど、だれでも「素直な棒」を宿している。この句はその事実を坦々と伝えているのだと思う。

2014年1月12日 14:03

水曜になると素顔がぐらぐらする    小池正博

(第18回杉野十佐一賞より。)
あやしくて、おもしろくて、説得力がある。水曜日という週のまんなかの日。月曜・火曜まではなんとかこらえたのだろう。水曜になると、素顔がもちこたえられずにぐらぐらする。「素顔」はわたし。「すいよう」と「すがお」の「す」の音の響きあいもいい。そして、「ぐらぐらする」。抜けそうな歯みたいに。不安定感を表現する言葉はいろいろあるが、「素顔」には「ぐらぐら」がぴったりだ。しかも、結句が「ぐらぐらする」という6音で、不安定さというか感じ悪さというかが絶妙だ。計算され、選び抜かれた「ぐらぐら」である。小池さん、まいりました!
十佐一賞には、気になる作家の気になる作品がいっぱいあって、とても楽しい。

2014年1月 9日 11:57

天翔る手綱を緩めてはならぬ    小島蘭幸

小島蘭幸さんの新年の御挨拶はとても力強い。穏やかで優しそうな蘭幸さんの表情や静かな声の調子を思い出しながら、改めて姿勢を正した。わたしは、こんなに強い調子で句を書いたことがない。「手綱を緩めてはならぬ」は川柳に向かう蘭幸さんの決意なのだろうか。今年10月に「川柳塔」の90周年記念大会が開催されるということである。90年とはまた長い長い時間である。大正末から平成の今現在へ連綿と受け継がれているものがあるのだ。時間と人とが織りなしてきたものの不思議を思う。

2014年1月 6日 19:25

軽トラの荷台で跳ねている菜花    丸山進

春らしいかわいい句が添えられていたのは丸山さんの年賀状。
丸山さんは千変万化、いろんな顔を見せてくれる。超かっこいいバージョン、おとぼけバージョン、オヤジギャグバージョン、純情バージョン、哀愁バージョン、・・・などなどなど。どれもが愛に満ちた丸山さんであるところがすごい。作為的にどれかの型を装うのではなくて、どの句をつくるときも、至極まじめな自然体なのである。だから、無記名の句を選句したときに、あとで作者を知って、えーーーっ!と仰天することもある。(やっぱりー...ってこともあります。)
では、昨年のねじまき句会から、丸山さんの超かっこいいバージョンを一句。

月光はゆっくり曲がり納屋に入る    丸山進

2014年1月 3日 17:30

なくしたのだろうかありふれた水を    ひとり静

静さんの年賀状に添えられた一句。
静さんと「ありふれた水」のことをお話したい。どうも二人とも「ありふれた水」が気になるようだから。去年の川柳コロキュウムの大会の私の句。

ありふれた水になれたらいいけれど

ね、「ありふれた水」シスターズでしょ。二人で話したら、「だって、それはありふれた水でしょ。」とか「それはもう、ありふれた水よ。」とかになるんだろうか。そんな話ができる人がいるということが不思議でうれしくてどきどきした。こいつぁー春から縁起がいいわい!

2014年1月 3日 17:15

こんにゃくの素質も少しおありです    竹内ゆみこ

第18回杉野十佐一賞大賞作品である。
大晦日に届いた「おかじょうき」をドタバタの中でとにもかくにも開きつつ絶句した。え、「こんにゃくの素質」ですか、はあー、「おあり」なのですね・・・。押しつまった暮れのせわしい日常が一瞬停止した。初めて読んだときがときだっただけに、現実世界とのギャップを実感しておもしろかった。「こんにゃくの素質」にやられた。何だよそれ!でありながら、何かしらあるもの。元からあることを知っていたのに意識の次元には置いていなかったこと。そういうものと出会わせてもらえることはとても楽しい。実は、私はこんにゃくはちょっと苦手なのである。キライなのではない。なんだかその存在感を扱いかねている。といってもこんにゃくはよく使うのだが、糸こんにゃくだけはどうにもだめだ。だから我が家のすき焼きには葛きりが入っている。

2014年1月 3日 16:37