遺影めく君の真顔や我を抱き    佐藤文香

(川柳カード第2回大会・自選二十句より。)
土曜日は川柳「カード」の第2回大会。第1部では、若い俳人の佐藤文香さんと樋口由紀子さんの俳句と川柳の比較を中心にした対談があった。俳句と川柳の実質的な違いが季語の有無などではないことは確かである。切れ字も大きな問題ではないだろう。いろいろと考えることはあったが、まだ考えがまとまりきらない。大会にはねじまき句会からも7名参加。八上桐子さんが大活躍し、あとのメンバーもそれぞれに数句ずつ戦果を挙げた。がんばった!大会の選という洗礼を受けると、自分の作句についても考えるきっかけになる。あー、帰ってきてみると、あの人ともこの人とももっと川柳の話をしたかった。いろいろ聞きたいことがあった。せっかくのチャンスなのに、連絡先などを交換するのが苦手なのである。迂闊とも言える。忙しさにかまけて連絡を取ることが結局はおろそかになってしまうことを惧れる気持ちも無意識に働いているかもしれない。勢いにまかせてはいけないと自動制御装置が働くのだろうか。石橋芳山さんとは何回か大会でお会いして海賊慣れしたので普通にお話できるようになってうれしい。今回は、おそるおそる石田柊馬さんにお声をかけてお話しできたこと、2次会にも少し参加させていただいて広瀬ちえみさんの横にへばりついてすわっていたことなど、いつもより半歩くらいは前進したということにしておこう。兵頭全郎さんとくんじろうさんに一発芸をほめられたことも。わたしの戦果は3句。湊圭史さん選の「泣く」と筒井祥文さん選の「チョコレート」。

吃水線のあたりでちょっと泣いてみる
泣きたいの泣くかも泣いてみせるから
因果など含めマーブルチョコレート

2013年9月30日 02:49

うろこくらいはらってくればよかったわ    小奈生

というわけで、いつの間にか9月も下旬である。秋のバラが力なく咲き、陽射しは拡散する。三連休の最後の夜にママカリが到来した。イワシからママカリへ季節はめぐる。ママカリはこのあたりではキンカワと呼ばれるらしい。サッパともいう。どれが正式名称なのかは知らない。100尾をゆうに越えるママカリくんたちを前にして少々びびりながら鱗をとりはじめた。いよいよの段になって酢が足りないという事態に直面する。便利コンビニ~♪真夜中に酢を買いにくるオバサンをコンビニのバイトくんはどう思っただろう。しかも握りしめた千円札を差し出した手にきらきらする鱗がぺたぺた貼りついていたら!お酢を買ってコンビニをあとにしながら、レジ台をはさんだ淡々としたやりとりがちょっとおもしろい光景だったように思えて楽しかった。五七五だけど川柳じゃないものが、川柳になるかもしれない何かがかすかに匂う。

2013年9月24日 01:57

焼香の列に並んでいる故人    三宅保州

(「おかじょうき」8月号『香』より。)
自分の近しい人がこの世から消えてしまうという事実を本当に飲み込むのには時間がかかる。頭でわかっていても感覚がついていかない。ふとそこに立っていそうな・・・とか、笑い声が聞こえてきそうで・・・などとよく言う。ところが、なんと故人は焼香の列に並んでいるというのである。大胆だ。故人のユーモアあるお茶目な人柄が偲ばれる。その故人の姿を淡々と描写することで、故人に対する愛着も伝わってくる。故人が焼香の列に並んでいても、キャッ!なんてことにはならない。こんな光景があってもいいかなと思わせてくれるやさしい句だ。

2013年9月16日 04:22

ポキポキと折れて香木らしくなる    中村みのり

(「おかじょうき」8月号『香』より。)
ポキポキ折れるくらい乾かないと香木にはならない。「ポキポキと折れて」なんて枯れきってぼろぼろみたいだけど、だからこそよい香木になれるのだというところがいい。人もそうなのかなあと思う。じめじめしていてはだめ。からっと乾いてよい香りのする人になりたい。いつまでたっても未熟者の私は心底そう願う。

2013年9月16日 02:50

鰻屋の前に大人の猫といる    須藤しんのすけ

(「おかじょうき」8月号『香』より。)
ああ、蒲焼きのいい匂い。炭は備長炭ですね。「大人の猫」がポイント。子どもはいけません。節操なくみゃーみゃーと欲しがるばかり。大人には身を乗り出しそうになっていてもぐっとこらえる我慢があります。大人の猫と鰻屋の前に立ち、おいしそうな香りが通り過ぎていくのにまかせている。なんだか哀愁まで感じてしまいそう。大人ですからね。どんなに心が引っ張られても平気な顔をして堪えなきゃいけないことって、日常の中によくあることですよね。そんなときに悲壮な顔をするのは趣味じゃありません。くすっと笑えるちょっと哀しい感じが出せるところがいいなあと思うのです。

2013年9月14日 15:31

後頭部トリの巣にして出す香り    中村みのり

(「おかじょうき」8月号『香』より。)
トリの巣って、確かいろんなものを集めてきてつくられるのだったと思う。ああでもない、こうでもない、うううぅと髪をかきむしらんばかりに呻吟している人の姿が思い浮かぶ。本人は必死でなりふりなどかまっていられない状態なのだが、実はそんな人からかすかなよい香りがしている。きっと、もうすぐ呪縛から解かれて驚くくらいすっきりした考えがぽろりと転がり落ちる瞬間が訪れるのだろう。後頭部をトリの巣にしているかっこ悪さによい香りをかぎつける視線のやさしさにひかれた。

2013年9月14日 14:37

ゆらゆらとわたしが香る金魚鉢    林順子

(「おかじょうき」8月号『香』より。)
金魚鉢はオーソドックスなガラス製の口がフリルのように波々になっているタイプ。そのフリルの縁が青いあれです。子どもの頃、金魚の水槽の水を取り換えるのはわたしの役目だったけれど、おさかなの匂いがしみついた水だったなあ。でも、取り換えた後は金魚も何だか気持ちよさそうに悠々と泳いでいるように見えました。「ゆらゆらと」は「わたしが香る」ことの形容になっているのですが、琉金(たぶん)の尾びれを連想させます。金魚鉢の中には琉金か何か尾びれのひらひらする金魚が泳いでいる。(水はきれい!)「わたし」はぼんやりその金魚鉢を見ている。例えば朝寝坊した休日のお昼前ぐらい。ずーーっと見ている。そのうちに、わたしがわたしでなくなり、わたしは金魚鉢の中にいて、わたしはゆらゆらと香りだす。いやもう完全な妄想です。でも、見ている対象と自分との境目がわからなくなっていく感覚には覚えがあるのです。その感覚を取り出した句を見過ごせませんでした。

2013年9月12日 19:01

朝の水わたしの中で香りだす    丸山空木

(「おかじょうき」8月号『香』より。)
わたしの身体はひとつの容れものである。この感覚は多少なりとも誰もが感じるのではないだろうか。そこに朝一番の水が入る。その水が体内に入っていく感覚とともに一日の始まりである朝が実感されて香りだすのだ。昨日から続いた夜がそこで終わり、わたしも更新される。爽やかないい朝でよかったと思ってしまう。だってだって、体の中から変な匂いがたちのぼってくるような朝はイヤですから。(決して昨夜食べたギョウザの匂いとかいう意味ではありません!)水の爽快感が気持ちいい。

2013年9月11日 14:49

朝刊の香りポトリと落ちてくる    谷口文

(「おかじょうき」8月号『香』)
朝刊が新聞受けに落ちる音がする。こんな時間に起きているということは、徹夜してしまったか相当に早く起きたかのどちらかである。わたしは前者のような気がする。そうでないと「ポトリ」にならないように思うのだ。夜通し起きていて曖昧になってしまいそうな〈きのう〉と〈きょう〉との境目を辛うじてつけてくれたのが、新聞の落ちる音である。音を聞くのと同時に特有のインクの香りも感じたのだろう。それが、〈きょう〉という日を始める合図みたいに。シーンの切り取り方がいい。

2013年9月 8日 15:29

ミントの香あなたは嘘をついている    ひとり静

(「おかじょうき」8月号『香』)
なんだか楽しくなってくる。あなたは嘘をついている、わたしも嘘をついている、なんてね。「ほんとうは・・・」と頑張るほど本当のことから遠ざかってしまうような感覚にとらえられることがある。ある意味、嘘は日常なのかもしれない。ここでの「嘘」はじめじめした陰湿さを感じさせない。ミントの香が効果的なのだろう。

2013年9月 3日 15:11

雲の香を盗む鳥だけ飼い馴らす    月波与生

(「おかじょうき」8月号『香』より。)
手紙を運ぶ伝書鳩でも美しい声で鳴くカナリヤでも人の言葉を話す九官鳥でもなく、「雲の香を盗む鳥」なのだ。そもそも、雲に香りなんてあるのか。そんなものを盗んでくる鳥ってなんなんだ。さらに「だけ」という限定入りである。雲は刻々と姿を変える。風に流される。さっき見えたものは次の瞬間にはない。悲しみのようなもの、喜びのようなもの、怒り、嫉妬、愛、羨望、ありとあらゆる感情の面影をイメージとして重ねることができる。鳥の運んできたそれらひとつひとつを作者は大切なものと考えているように思った。「飼い馴らす」というのは能動的な意志表明である。それらを大事に受け止めながら生きていくということではないのか。何の実用性もなくあえかなもの運んでくる鳥を飼い馴らすというところに作者の詩を感じるのは、うがった見方だろうか。

2013年9月 3日 11:58

黙々と父の香りのフクスケシャツ    谷口文

(「おかじょうき」8月号『香』より。)
父はやっぱり「黙々と」ですね。わたしの父は昭和1ケタ生まれですが、その年配の人たちは我慢強くて特にそんな感じがします。下着はフクスケシャツ。BVDではなく、グンゼですらなく、福助です。そういう父の匂いを「香り」と表現するところに、父をいとおしむ娘の心情が感じられます。つまり、ここは「香り」でなくてはならないのです。中には「パパ、クサーイ!」などと逃げ出す女子中学生や女子高生もいるということですが、彼女たちにはこのフクスケシャツの感じは伝わらないのでしょうね。でも、この間、こんな発言をする女子高生もいました。「パパの匂いってわたしの匂いと似てるんだよね。」ふーん、そうか、親子だから確かにそういうこともあるかもしれません。なかなか新鮮な発言でした。

2013年9月 2日 22:28

線香ゆらゆら奈落の底はどのあたり    まきこ

(「おかじょうき」8月号『香』)
線香の煙はゆらゆらと上に向かう。その煙を見て、「奈落の底はどのあたり」かと思うのである。視線は上にあって奈落の底を問う、地獄の恐ろしさを感じさせないのはそのせいだろうか。人はいつかはこの世から消える。これは必然である。そのことをそれ以上でもそれ以下でもない事実として受け入れることのできる時期があるように思う。その後にあるのは極楽か地獄か、わかるはずもないしなるようにしかならない。そのときまでは、一生懸命生きる。そういう静かな落ち着きを「奈落の底はどのあたり」に感じる。

2013年9月 2日 19:22