記録には飛べない鳥として残る    なかはられいこ

(脱衣場のアリス」より。)
日本語を勉強している外国人に「が」と「は」の違いについて尋ねられたことがある。この場合の「は」は主語の文節で使われていないので、「が」には置き換えられないが、副助詞「は」の面目躍如と言ってよい作品だと思う。「は」が入ることで意味が限定されると同時に、「記録」以外のものに対する読者の想像力を広げてくれるからだ。「記録には・・・残る」しかし、この「鳥」の真実はそこにはない。この時点で、わたしたちはすでに「鳥」を鳥としてではなく、人として読み始めるのだ。その人の作者にとっての人称は明示されていないが、いずれにしても読者にとっては三人称であり、自分の外にあって自分と重ね合わせることのできる人である。記録には飛べない鳥として残ることをよしとして生きることは、あきらめのようでもあり現実を受け入れて前向きに生きていく姿でもある。この句の透明感のあるすがすがしさの所以であろう。

2013年6月30日 12:09

夕立と僕とあなたと自販機と    小奈生

「へのへのもへじあちこちの壁」という雑の短句に、夏の恋句をつけるようにというお捌きの要請に従ってつけた句である。周知のとおり、俳句は連句の発句が独立したものである。では、例えば上のような句は独立して何かになれるのだろうか。夏の句ではあるが、川柳に季節を表す言葉を使うことが禁止されているわけではないのだから、川柳ですと言い切れば川柳なのだろう。ただ、その場合に川柳としてどうなのかというのが問題である。月末は忙しい。しかも期末テスト真っ只中とあっては、塾の先生はドタバタである。忙しさの隙間からややこしい疑問が立ち上がる。

2013年6月25日 07:25

夕日とか団地だとかを詰めた缶    小奈生

日曜日は高校の同窓会の東海支部の総会だった。名城線の事故の影響で数名が遅れて到着されたのだが、一人だけいつになってもいらっしゃらない。私も日頃お世話になっている大先輩だったので、心配になってご自宅にお電話した。電話に出られた奥様に「主人は8日に亡くなりました。」と告げられて、何とも言いようのない気持ちになる。辛うじてお悔やみの言葉をお伝えして、あとは何をどう話したのかあまり覚えていない。この世から失われてしまった声や表情や仕草が鮮明によみがえる。ふわふわとした不思議な気持ちのまま時間を過ごした。会が終わって、外に出ると午後3時過ぎの空気が暑くて重い。句会に合流するために東別院に向かう予定だったので、地下鉄に乗るべきなのだが、何となく歩き出してしまう。日曜日の栄は、歩行者天国が実施されているせいか一本裏の通りまでやけに人通りが多い。プリンセス大通りを抜け、ロフトの脇を通って若宮大通りを渡り、いつの間にか大須の人混みに合流していた。たくさんの人がいる。いろんな音がして、いろんな匂いがする。この同じ空間から跡形もなく消えてしまった人がいることが、よく実感できない。一人、また一人と昭和を背負って生きてきた人たちが姿を消していく。先輩もまた、昭和という時代を最初から最後まで生き抜いていらっしゃった方である。昭和の人の死は私にはとても生々しい。

2013年6月19日 15:51

あくにんのうすももいろの骨愛す    なかはられいこ

(「散華詩集」より。)
句はしばしば記憶の隅から不意に立ち現れる。昨日は用があって栄まで出かけた。ふとしたご縁でいただいた「名古屋円空仏の会作品展」の案内に、作品展が日曜まで中区役所の市民ギャラリーで開かれていると書いてあったことを思い出して立ち寄った。そこで私に声をかけていろいろと教えてくださった方が、縁あって私の手元にある護法神の模刻の作者であることがわかって、正しい偶然とでもいうようなものを感じた。日常の中に、このような「ちょっとしたできごと」があるのはとてもうれしい。円空仏の目は木に刻まれた一本の線である。かがみこんで斜め下からお顔を見上げると、その目に静かに見つめられる。ふと、記憶の隅から現れた句がどんな意味を持つのか吟味する必要はないと思っている。

2013年6月10日 23:10

ゆっくりは今どのへんにいるだろう    徳永政二

(「洋子の部屋」Part 2より。)
「ゆっくり」という副詞を事も無げに名詞化して違和感を感じさせないのがおもしろい。まあ、ゆっくりのヤツのことだから、またどこかで寝っ転がって雲でも眺めているかもしれません、とでもお答えしておこうか。この句の紡ぎだす時間の流れが明らかにゆっくりになっている。そこが一番の魅力であると思う。
今年は玉葱が豊作だったのか、あの方この方からたくさん頂戴した。もちろん生でおいしいオニオンスライスも最高だが、スープ、カレー、ミートソースなど、ことこと煮込む日が続いた。暑い!かなり暑い。しかし、じっくりと煮込む時間、煮込んでとろとろになった野菜を口に入れた時の感触は、心のしわくちゃをやさしく伸ばしてくれるようである。

2013年6月 8日 18:23

闘争心失うバナナ食べるたび    八上桐子

(「洋子の部屋」Part 2より。)
カクッ。桐子さん、こんなことも言うのですね。力が抜けました。力が抜けたら、元気が出たぞ。そういうこともあります。バナナのあのぐにゃりとした食感は闘争心を失うに十分です。納得。実はきょうスーパーでバナナを買って帰ってきた直後にこの句に遭遇しました。なんとタイムリーな。父が体調を崩していて、ようやく少し食欲が出てきたので、「バナナは食べるかなあ。」と、とても久しぶりにバナナを買いました。考えてみると、父がバナナを好きだったか嫌いだったかもわからない娘でした。ふうーっとため息のひとつも出そうなところでこの句です。桐子さん、やってくれますね。

2013年6月 6日 17:18