雨の日はラシラシと吸うハーモニカ    小奈生

ついに梅雨入り。早い。入るのが早いなら明けるのも早いんでしょうねと念を押してみたくなるが、何せ相手のいないことである。ゴールを見ようとするとかえってつらい。目の前のきょうだけを見て一日一日と過ごしていけばよいのだ。梅雨といったって、毎日24時間雨が降るわけではないのだから。「何か楽しくなることを考えればいいのよ。」と、「きれいな長靴を買ってみるのはどうかな?」と提案してみたところ、小学生に慈悲の眼差しで見つめられた。知らないでしょ(当然!)、わたしは、昔々あるところで、雨の日も晴れの日もお気に入りの黄色の長靴をはいていて、長靴姫と呼ばれていたんですからね!

2013年5月29日 08:00

天仰ぐ蛇口になっている次第    小奈生

川べりで正しい音を身につける
正真正銘くるぶしまでが川である
坂道の途中で川になっていく
風の音でも水の音でもなくて

なかはられいこさんの「そらとぶうさぎ」のページに手作り吟行マップの写真を発見。あ、ありがとうございます。うちの子に日の目を見せてやってくださって。どう考えても、もう使うことないしなあ・・・と原本をエイッと処分したところでした。存在証明ができました。では、自分の吟行の句も整理しておこうという次第です。改めて、吟行と言いつつ、あまり移動した形跡のうかがえない句たちだなあと実感。ぼんやり座っているのにちょうどよい日和だったからしかたない!ということにしておこう。
好きだった句たち。

迷わないつもりでいくつも橋渡る    ながたまみ
葉桜の下でまぶたをおろそかに   なかはられいこ
降りてゆく水の匂いになってゆく     八上桐子

2013年5月24日 15:56

ちょうつがい夜をはさんで開かない    笹田かなえ

(「川柳文学コロキュウム・創立10周年合同句集」より。)
「ちょうつがい」はもちろん蝶番である。あの左右対称形の完璧な姿が目に浮かぶ。蝶番によって、ドアは自由な開閉を約束される。その「ちょうつがい」がはさんでしまったのは「夜」。夜のこちら側とむこう側には相似形の夕暮れと夜明けがある。「開かない」となれば、今日から明日への通路が断たれ、「わたし」はそこに立ちつくすことになる。しかし、決して暗くないところ、重くないところがこの句の魅力である。開かないうちは夜のままでいいでしょう、そのうちなるようになるんじゃない?所詮ちょうつがい程度のことですから・・・という匂いをかいでしまうのは自分に引き寄せ過ぎた読みだろうか。夜が来て朝が来るという規則正しさに疲れることもある。たまには滞ってもいい。開き直って、夜の真ん中でじっとしているのもまたひとつ。

2013年5月23日 08:18

橋渡るたぶんあちらがこちら側    小奈生

きのうはねじまき句会の吟行でした。総勢10名、お弁当を持って遠足気分です。桜山をスタートに石川橋まで歩いて解散。山崎川沿いを歩いたり、東山荘のお庭を見たり、博物館へ行ったり、住宅街の中をくねくねしたり、思い思いの時間を過ごしました。昭和生涯学習センター集合は午後2時、そこで5句を提出するという段取りです。わたしは、川沿いを歩いているうちに向こうのほうにおもしろそうなスーパーを見つけて寄り道。チーズやワインの品揃えが豊富なチョイ高級なスーパーのようでした。入口のパン屋さんを物色して、レーズンクリームのフランスパンを購入。山崎川にもどると、さっそく田辺公園のベンチで持参したお弁当とレーズンクリームパンのランチに突入しました。いい日曜日です。子供の声、鳥の声、風の音、緑みどり、水。公園の水飲み場に3,4歳の男の子を連れたお母さんが登場。子どもたちは、蛇口の水をびゅんびゅん吹き上げて、Tシャツをびしょびしょにして、きゃっきゃと笑っています。お母さんの制止など完全無視。そりゃそうだよね、楽しそうだもん。と、一人の男の子と目が合ってしまいました。ん?やりたいだろう、みたいな挑発的な目だ。ピースサインで笑顔を返して視線を外すと、背中を向けていたもう一人の男の子の流し目とまたもや目が合ってしまう。ううーん、確実に何かのサインが飛んでいる。確かに、親子連れが立ち去った後、密かに蛇口から水を吹き上げたことを告白します。一度だけね。気持ちよかった!そのあと、萩山橋近くの川に下りる階段にすわっていろんな音を聞きながら時間を過ごしました。余裕を持って生涯学習センターに戻って句をつくろうと時間を確認すると、えーーーっ!急に余裕を失い、集合時間には間に合ったものの、ヒイヒイ言いながら句を提出する羽目になるとは、予想外の展開でした。多少の迷子も発生しましたが、吟行中はひどい雨に降られることもなく、無事にひとつのイベントが終わりました。

2013年5月20日 10:52

鳥になるか埃になるか迷ってる    広瀬ちえみ

(セレクション柳人「広瀬ちえみ集」より。)
困ったときは広瀬ちえみさんに訊いてみようと句集を広げた。鳥はところどころにいる。やはり、鳥は何某かの重要単語なのだ。ワタシハ、鳥ニモ埃ニモナレル。ソコデ、ドチラニシヨウカ迷ッテイル。というところからスタートしてよいのだと思う。鳥は、飛べる。埃だって風に乗れば飛べる。鳥には自由意思があるが、埃にはない。鳥は、飛べば危険な目にも遭うが、埃が飛んでいても誰も気にも留めない。さあ、どっち?意外と目立たずふわふわしていられる埃のほうを選んでしまうかもしれない。鳥はなかなかしんどそうだ。いやあ、でも・・・。これが迷うところなのか。toriとhokori、音は似ているんだけどなあ。訊いてみればわかるという単純な話ではなかったが、こうやってあれやこれや探っていれば、だんだん形をとってくるものがあるかもしれないので、とりあえずよしとしよう。次の句もおもしろかった。

鳥の声あげる画鋲をはずされて    広瀬ちえみ

2013年5月17日 14:47

もうなにがなんだかまわり粉だらけ    ひとり静

(「海の鳥・空の魚Ⅱ」より。)
郵便受けを開けると、静さんの句集。先日、コロキュウムの大会で初めてお会いして、送ってくださるということだったけれど、さっそく!ページを繰ると、静かな音楽が正しいリズムで流れだすような素敵な句集だ。日常のすみっこで息をひそめている何かを取り出して見せてもらっている感覚。「薺」の章をひとつめくったところで、この句に出会った。力が抜けて、ふふっと笑ってしまう。静さんは大和の空の下で、今何をしていらっしゃるのだろうか。

2013年5月16日 10:39

眠るまで一人観ている非常口    北野岸柳

(「おかじょうき」2013.5月号より。)
眠ろうとして眠りにつくまでの時間は不安定である。思いっきり、一人であることが覆いかぶさってくる。さまざまな想念がかけめぐる。そんなとき非常口の明かりが目に入るとほっとする。なんといっても、そこには、あの緑色の人がいるのだから。なんだか頼りないような人の良さそうな親しい人。眠るまで非常口を観ているというのが妙にリアルでおもしろかった。待てよ、「見る」ではなくて、あえて「観る」なんだ!これは思索である。深い。わたしは「見る」だけで簡単に眠ってしまいそうだ。

2013年5月15日 14:38

許したのは私の中の水の部分    小島蘭幸

川柳文学コロキュウム10周年記念川柳大会に行ってきた。「月の子忌」7回忌記念大会でいただいた案内を見てお電話したら、運よく買い物から帰ったところだという赤松ますみさんが電話に出て、「おいで、おいで。」と気さくに言ってくださったので、勇気を奮っての単独参加だ。会場に到着し、赤松ますみさんを発見。明るい色のお着物姿が華やかでかっこいい。最初に出会ったのは瀬戸の中川喜代子さん。どこまでも上品で控えめな女性である中川さんがなかなかのツワモノであることは過去の実績が証明している。しばらくして、ねじまき句会メンバーで静岡の米山明日歌さんと合流。気風のいい姐御っぽい明日歌さんの隣に座ると俄然安心する。徳永怜子さん、石橋芳山さんとご挨拶。怜子さんは句のイメージどおり知的でクールな女性。芳山さんはきょうも海賊スタイルでうれしくなる。八戸の笹田かなえさんとも思いがけず再会!とてもお会いしたかったので感激。大好きな「なかよし」をお土産に頂戴してさらにうれしい。「もしかして会えたら」と思って用意してくださったということだが、どうして「会えるかも」なんだろう。わたしはちっとも予期していなかった。やっぱり、かなえさんには霊力があるのか・・・。一度お話してみたかった徳永政二さんの姿を見つけたので、ご挨拶に。ご挨拶しかできなかったけれど、「雲をつかむような」の雲とお話しているみたいだった。不思議。なんやかんやで披講が始まり、中川さんも明日歌さんもバシバシ呼名なさっていた。さすがだ。
本日のわたしの入選句。

手を貸してくれ夕方がいっちまう
ありふれた水になれたらいいけれど
ゆくりなく海へとすべり落ちる棚
骨一片混入させる万華鏡

小島蘭幸さんの句が気になって、懇親会のときに図々しくもご本人に直接お願いして表記を教えていただいた。「字余りになりすぎて、どうかとも思ったのですが。」とおっしゃっていた。でも、字余りによるおさまりきらない感じが、許すという行為の割り切れないところをよく表しているのではないだろうか。たとえば「わたくしの水の部分が許してる」と五七五で整ってしまうと、とりつく島もない。字余りのモヤモヤ感のほうがずっといい。それにしても蘭幸さんの瞳は底知れずやさしかった。ついつい、じっと見てしまった失礼をお許しください。


2013年5月11日 23:12

鳥の素顔を見てはいけない    小池正博

(セレクション柳人「小池正博集」より。)
ん?と一瞬立ち止まってから、七七句であることに気づく。「見てはいけない」という警告は、「見てごらん」という誘惑である。「鳥の素顔」を見ると、いったい何が起こるのか。ここでまたどり着くのが、「鳥」とはいったい何なのかという問いである。実際、鳥の顔というのはなかなかに恐ろしいので、「見てはいけない」がリアルに機能するのだが、やはり「鳥」によって表現されるものを無視しては読むことができない。子どもの頃こわいものが二つあって、金魚のお腹と鳥の足(手?)がそれだった。両方ともうちで飼っていたので、ついついじっと見てしまい、見てしまってはぞくっと震えていた。鳥はインコ。母が飼っていたのだが、どんどん増えて大きめの鳥籠二つに何羽いたのか定かではない。ピヨという名の青い小さい子だけが籠から放免されて自由にうちの中を歩き回る放し飼い特権を獲得していた。あのとき随分しげしげと見つめてしまったけれど、あれは素顔だったのだろうか。

2013年5月 9日 12:33

千九百年祭。

もちろん、熱田神宮のことだ。名鉄神宮駅近くの喫茶店に入った途端、年配の男性の声が飛び込んできた。「だから、1900年前の、きょうできたんだよ。」わたしは心の中で声をあげる。「えーっ!きょうなの!?」なんかすごい偶然にぶちあたった気分だ。そういえば、やけにダークスーツ姿の男性の姿が多いと思った。何か式典でもあるのだろうか。千九百年祭ってきりがいいような悪いようなと思って前々から案内は見ていたけれど、よく考えたら二千年祭まで生き残れる人はそんなに多くない。わたしは、絶対的にバツである。1900年前の5月8日ってことだよねえ。きょうはかなり特別な日である。

2013年5月 8日 15:11

名前から大きな鳥が飛び立った    倉本朝世

(「月の子忌 会報」Vol.3より。)
言語は記号だという考え方がある。名前はその最たるものだろう。また、記号にはそれを読み解くためのコードが存在するが、それぞれの場において独自のコードがあると考えれば、川柳の場でも「名前」や「鳥」という言語は一定のコードに従って変換されることになる。しかしながら、幸か不幸か不勉強で未熟な私はそのコードを持ち合わせていない。だから不遜にも勝手気儘に読んでしまうのである。私たちは、一人一人固有の名前を持っている。生きている間は、その人とその名前は不可分である。「名前」を個体に貼られたラベルのようなものと考え、「鳥」をその人の実体あるいは魂のようなものと考えるなら、死の瞬間、鳥は名前を飛び立っていく。その鳥を大きいと感じるのはあくまで見る者の主観である。残る者は、大きな鳥の飛び立った空を振り仰ぐばかりだ。

2013年5月 7日 08:48

手首より鳥たつあっと声を出し    石部明

(セレクション柳人「石部明集」より。)
「鳥」はいったい何なのだろう。川柳の中には「鳥」がよく登場する。ときに「梟」や「鶴」や「鳩」といった具体名を与えられることがあるが、「鳥」が圧倒的に多い。そして、具体名を与えられた場合と「鳥」の場合とでは、当然のことながら意味合いがまったく異なる。今のところ、「鳥」は人の中にある何かという感触をもっている。わたしはまだ句の中に「鳥」を登場させたことがない。わたしにとっては、まだまだ不確かな定まらない存在である。胸の中に小鳥を住まわせていたのは堀辰夫さんだった(と思う)。彼の場合は肺結核のことを言っていたのだが、比喩としてそれが「鳥」であったことは暗示的であるような気がする。

2013年5月 6日 08:53

行かないと思う中国も天国も    なかはられいこ

(「旬」No.146より。)
大学時代の恩師から近況を伝えるメールが届いた。私たちの心配を慮り、さらに各地に暮らす教え子のみんなにメールが届くように配慮された思いやりあふれる方法で。中国の杭州にある大学の大学院で論文指導をなさっているということだった。先生の文章を読んでいると、森林浴をして美しい空気をいっぱいに吸い込んだような穏やかで清々しい気持ちになる。それは、先生の濁りのないまっすぐな生き方がにじみ出ているからなのだろう。中国かぁ・・・一生行かないかもと思ったら、なかはられいこさんの声がした。

2013年5月 5日 13:58

春明るく髪に寝癖を賜りぬ    池田澄子

(「池田澄子句集(ふらんす堂刊)」より。)
こんな穏やかであたたかい春がどこにもいない。はっきり言って寒い。もうゴールデンウィークなのに。北海道では雪が降ったらしい。「いくら北海道でも寒いよ。」とインタビューされたおじさんが話していた。それはそうでしょう。春を待つ気持ちが強い場所であればなおさら、がっくりとくるにちがいない。昨日の名古屋は風も強かった。わさわさと咲き始めていたバラの大きな蕾が風で折られた。グラスに挿して見守ることにする。しっかりと閉じたままの蕾、咲いてね。

2013年5月 2日 10:07

折れてくれ折れ線グラフなのだから    丸山進

(「川柳カレンダー2013・5月」より。)
「折れてくれ」と言われて、思わずクスッと笑ってしまう。何のグラフなんだろう。増え続ける体重?右肩上がりの株価?あるいは逆に下降線をたどり続ける何か?いずれにしても、折れ線グラフによって示される何らかの具体的状況に対してではなく、直線を描くグラフそのものに対して「折れてくれ」と祈ってしまうところが最高だ。上がったり下がったりしている折れ線グラフのあの形にこそ親しさも安心感もあるのだから。わたしたちの日常はまっすぐには進まない。一喜一憂、舞い上がったりへこんだり。だから、たとえよいことであっても、まっすぐ進みすぎるものには不安を覚える。折れ線グラフがちょうどよくて安心だ。

2013年5月 1日 10:36