凩の日に子と開く広辞苑    小奈生

連句の会で歌仙を巻いています。
「もういいかいとオニが叫んで」にわたしが付けました。季は冬。ふだんの自分とは全然ちがって照れます。連句のとき一番苦手なのは花の句。好きなのになあ、さくら。発句もだめです。力が入りすぎて何も言えない!雑で暴れるのが楽しいと感じるのは川柳を書いているせいかなあ。

2013年4月28日 11:53

牛乳寒天わたくしを包囲する    妹尾凛

(第98回ねじまき句会より。)
なんといっても牛乳寒天だ。年代によっては知らない人もいるかもしれないが、知っている者にとっては絶妙なアイテムの選択である。句会でも牛乳寒天談義に花が咲いた。ミルクでもなくゼリーやプリンでもなく牛乳寒天!味も匂いも色も食感もすべてが中途半端でやるせない。そんなものに包囲されている「わたくし」の絶望的ではない閉塞感がおもしろい。身に覚えのある何かを感じてしまうのはわたしだけではないように思う。

2013年4月23日 12:58

四六時中七転八倒五里霧中    小奈生

きのうは、ねじまき句会の日。4月の題は「四」です。上の句はその副産物。句会に提出した句ではありませんが、「四」を考えている途中に浮かんでしまってついに消えることがなかったので書きとどめてみました。言葉遊びで終わってしまっていると判断して句会には連れていってやれなかったから、せっかく現れてくれたのにゴメンナサイの気持ちをこめて。わたしは所用があって遅刻して参加したのですが、そろりとドアを開けると、新メンバーの3名の参加でおおいに活気づいていました。4月の新しい風!ねじまきも、ますます楽しくなりそうです。

2013年4月22日 10:22

おしまいにシャープを押すと春になる    小奈生

3月のねじまき句会に「おしまいにシャープを打つと春になる」のかたちで出句したものを改めた。句会での講評で、「最後にシャープを押してください。」という定型の音声アナウンスを読者に想起してもらうことを前提としている場合、そのフレーズはそのまま使ったほうがよいという意見をいただいたからだ。確かに、「打つ」がよくわからないという評は複数のメンバーから頂戴した。わたし自身も、よくよく考えてみると、どうしても「打つ」に拘泥する理由が見当たらない。という次第で改めさせていただいた。ちょっと「推敲」みたい。「押す」と「打つ」なので「押打(オウダ)」。もっと一語一語に繊細にならなければ!

2013年4月16日 15:42

すり減ったこころを雲にのせてやる    倉本朝世

(「時実新子7回忌川柳大会 会報」より。)
ああ、気持ちよさそう。「こころ」もふわふわに再生されそうです。成瀬巳喜男監督の「山の音」の冒頭シーンを思い出しました。嫁と舅がひまわりが塀から顔を出している道を歩いていました。病み上がりの舅が「ちょいと頭を外して、ヨロシクと修繕か洗濯にでも出して・・・」というようなことを言い、嫁が「まあ、お父さまったら。」ときれいな声で笑うシーンです。わたしたちは、疲れたり傷んだりした自分の一部を切り離して休めてやるという妄想を抱きやすい傾向にあるのかもしれません。ちょっと前に、花粉症の女の子が、目を取り外してシャバシャバと洗いたいと言っていましたが・・・これはちょっと現実的な欲求でしたね。

2013年4月13日 13:44

球形の発光体になってるの    小奈生

「おかじょうき」4月号が届いた。誌上句会『0番線』の題は「発」。久保田紺さんとむさしさんのお二人に拾っていただいたのが上の句である。
久保田紺さんの特選句は
 発音が悪くて届かない手紙    葉閑女
むさしさんの特選句は
 鳥曜日がきましたさあ発ちましょう    徳永怜
どちらも発想に独自性があって、なるほどと思う。
そう言えば徳永怜さんには、先月の月の子忌川柳大会で声をかけていただいた。きりりとした素敵な女性だった。
ところで、Sinさんの『終着駅』の欄に気になる言葉があったので引用してみる。
「言葉が言葉として成り立たない世界。意味が意味にならない世界。川柳にとって、意味は絶対必要なのだろうか。意味の共有も大事だが、心の共振というのが、案外、軽く見られているような気もする。」
意味を越えて、ストレートに心を揺さぶる言葉は確かに存在すると思う。考えてみよう。
4月号には「川柳ステーション2013」の案内もあった。7月6日。去年より1か月遅いから、もうライラックの花は終わっているかも。我が家の小ぶりなライラックは、ちょうど今、薄紫色の花を頼りなさげに風に揺らしている。

2013年4月 7日 21:48

いもうとは水になるため化粧する    石部明

(セレクション柳人「石部明集」より。)
「石部明集」を読み返している。「いもうと」の存在が興味深い。いつも漢字で表記される「姉」に対してひらがな表記である「いもうと」からは死が透けて見えるようだ。「化粧する」という行為はこの句以外にもあって、生きていくための営為を感じさせる。と、これは一読の印象。純粋さや透明感を感じさせる「いもうと」と対照的に「姉」は生の煩雑な行為を引き受けている気がして、二人姉妹の姉であるわたしとしては、ちょっと複雑な気持ちになった。
今月20日には岡山で石部明追悼川柳大会があるということだ。日程的に大会には参加できないけれど、川柳の偉大な先人の足跡を句集を通してたどってみたいと思った。

2013年4月 7日 12:13

どこまでが雨どこからが菫なの    妹尾凛

(「Senryu So」Vol.3より。)

雨はあらゆるものの境界を浸潤していく。しとしとと降り続く雨ならなおさら。そんな雨の日には、自分自身と雨の境目すらわからなくなる気がする。どこまでが雨?どこからがわたし?きょうは大荒れの予報。しとしとにはほど遠い天気のようだ。気のせいかもしれないが、今年は何度となく「春の嵐」という言葉を聞いたように思う。なんだか変な感じだ。

2013年4月 6日 10:59

春らんまん大地一本背負い投げ    石橋芳山

(「川柳塔まつえ」No.260より。)
「大地一本背負い投げ」がどうしようもなく爽快である。何しろ相手は大地だからスケールが大きい。よほど陽気がよかったのだろうか。ひょっとしたら、かすかだが確かな春の兆しを発見したときのうれしさが、春らんまんの季節への期待感をふくらませたのかもしれない。よーし、来い!という気持ちが「背負い投げ」の気分なのではないかと感じた。柔道はやったことがない。でも、たまに「背負い投げしたい!」気分にはなる。「ねえ、背負い投げしたい気分なんだけど。」と言うと、子どもたちに「無理だと思うよ。」とか「シロウトがやるとあぶないから。」とたしなめられる。「気持ちはわかるよ。」と言ってもらえることもある。そう、そこが重要なのだ。背負い投げしたい気分は伝わるということ。モヤモヤを打破したいときであったり、ヤッタ!というガッツポーズモードのときだったり、一通りではないけれど、気持ちがマイナスのときでないことは確かである。なんとなく美しい一本がきまりそうな(もちろん、わたしに限っては明らかに錯覚ですが)気がするのだ。

2013年4月 2日 15:18