泣きなさいビッグマックのピクルスくん    小奈生

いい日だった。でも言葉が追いつかなくてかえって何にも書けない。不十分な言葉は、大切なことを台無しにしてしまう。だからといって、こんな句でいいのか?いいとは思わないが、足跡だけは残しておこう。

2013年2月20日 14:19

看板の欠けた一字はたぶん春    なかはられいこ

(第12回ねじまき句会より。)
朝から冷たい雨が降っている。天気予報では、気温は上がるということだったのに一向にそんな気配はない。きょうは雨水。水ぬるみ草木も芽ぐむ頃のはずである。それならもう少しぬるめの雨がふっていいはずなのに、春はまだまだかーとムッとしていたら、この句を思い出した。春を待つ気持ちを的確にとらえた句だと改めて思った。文字の欠けた空白に「春」と置いてみる期待感。ほんのちょっとした変化にも春を感じ取ろうとする今の気持ちにぴったりだ。しかし実際にはまだまだ寒くてやりきれない気分が、「看板の欠けた」という欠落感に呼応する。
きょうは一日降るらしい。春支度に精を出す草木にはよい雨なのだろう。そういえば、枝と棘だけになったバラの木は寒さなんかおかまいなしに気持ちよさそうに雨を受けている。

2013年2月18日 13:01

あのひとをめくれば雨だれがきれい    畑美樹

(「セレクション柳人・畑美樹集」より。)
「めくる」という言葉は、とても気にかかる言葉のひとつである。「めくる」「めくれる」という言葉によって、人生のさまざまなシーンが開かれていくように感じる。よいことも悪いことも。なんとか使いこなしたいが、いまだ課題のままである。畑美樹さんのこの句の「めくる」はうつくしい。透明な声の響きをもった「めくる」だ。「めくる」という言葉をいじくっていると、いつもこの句が現れる。句の姿のうつくしさにも惹かれるが、何度も読み返していると人とのかかわり方や自分という存在のあり方にまで思いは至る。めくったのは「あのひと」、あらわれたのは「雨だれ」。「めくる」ことによって現れる世界はいつも意外であると同時に必然性を持っている。

2013年2月12日 14:33

吊るされた干鱈がヤアと手を挙げる    角田古錐

(「おかじょうき」2月号〈無人駅〉より。)
「生きてればティッシュを呉れる人がいる」と言ったのは丸山進さんだったが、生きてるといろんなものに声をかけてもらえる。花や木や雲やお隣の犬やポストや傘立てや、それはもうありとあらゆるもの。そんなもののおかげで生き続けていくことができると思うことがある。さかなもその例外ではない。干鱈ならなおさらである。風にさらされた乾き具合のせいなのか、さらりと「やあ。」と言ってくる。さかなの中では、やはり干物だろう。先日、わたしも海鮮市場で大きな鯛の開きに「おう。」と声をかけられた。「ああ。」と手を振りかえしたところを不覚にも市場のオッチャンに目撃され、土産物をせっせと選んでいた夫が「おもろい奥さんですなあ。」と言われたらしい。しまった、しまった。きっと古錐さんも、ぼんやり歩いているときかなんかに、吊るされた干鱈にヤアと言われて、ふと我にかえったのだろうと想像する。干鱈に挙げる手はあるのか。うん、まあ、あるのである。たぶん何となく風に揺れていただろうし。

2013年2月 7日 13:45

雪の匂いさせて立ってるなんてずるい   小奈生

関東はまた雪。朝のテレビはどこもかしこも盛んに雪への警戒を呼びかけている。先月の大雪に仰天したから無理からぬことだとは思うが、テレビってどうしてこうなのだろうとひんやりした気持ちにもなる。名古屋は朝からの雨がようやくあがった。立春は過ぎたけれどもまだまだ寒い。インフルエンザも少し峠を越えたのだろうか。受験生にとってはきつい時期だ。油断できない日々が続く。

2013年2月 6日 14:06

宇治は茶所、茶は政所。

きょうは、バスツアーで信楽から宇治に行ってきた。クリーニング屋さんの抽選で当たっちゃったから。単純に驚いて喜んでいたら、周囲の人の話で、どうも当たりやすい世代らしいということが判明してうれしさが少し減ったけれども、とりあえず奇跡的にお天気もよくはりきって出かけた。名古屋駅から新名神を通ってまず信楽へ。土山のあたりで添乗員さんが宇治のお茶も有名だけれど土山や信楽でもよいお茶がとれるという話をしてくださる。そう、この山を越えたあたりに政所もあるじゃないか。三重から滋賀、京都にかけてのこの山あいの地は銘茶地帯なのだとおおいに納得する。「宇治は茶所、茶は政所」という出所不明の言葉が浮かび上がる。そういえば「お伊勢はお多賀の子でござる」というのもあるぞ。きっと小さい頃に耳が自然に覚えたものにちがいない。これは昔の滋賀県人の気概の表れなのか。あるいは目立たないことへの屈折した思いがこうなったのか。今でこそそうでもないが、確かにわたしが子供の頃の滋賀県のイメージは地味だった。近江牛、江州米、信楽焼と立派な名産品があっても今ほど注目されることはなかったと思う。そうこうするうち信楽に到着。窯元の方の流暢な説明のあと見学。屋外の階段状になった所にたぬきがずらーっとならんでいる。一様に空を仰ぐ角度に首をあげて薄い色の寒そうな空を見ている。バス1台分の人たちにそれぞれ選ばれたたぬきがレジで包装されて誰かの所有物になっていく。そんな光景をぼーっと見ていたら出発の時間になってしまった。結局たぬきは買えずにバスに乗り込む。そして宇治。自由行動なので、一人で世界文化遺産の宇治上神社にお参りをし、源氏物語ミュージアムをみて街をぶらぶら。観光ルートをちょっとはずれた喫茶店で演劇をしていらっしゃる素敵なママさんとおしゃべりをする。知らない土地でだれかに会えるのは楽しい。世界遺産の平等院鳳凰堂は工事中で残念ながら姿を見ることがかなわなかった。宇治川も川底の工事をしていたが、工事用の構造物がない状態で全景を見てみたいと思う川だった。川があって橋がかかっている街は好きだ。

2013年2月 5日 23:17

パンツにも序列をつけて棄てていく    安井紀代子

(朝日新聞「東海柳壇」2013.1.31より。)
おみごと!とまず一言。こういうふうにちゃんと「パンツ」を取り出せる健全さが素晴らしい。「序列」という言葉が読む者の共感を喚起する。それは「パンツ」という格別に私的なものの「序列」なのである。だから、この「序列」もまた非常に個人的な、その人だけの「序列」として受容される。自分の所有物については、読む者ひとりひとりに自分だけの思い入れや序列がある。汚れてくたくたになったクマのぬいぐるみや、毛玉の目立つようになったセーターだっておんなじことだ。でも、なかなか表に出ることのない「パンツ」という言葉が取り出されることで、共感の核心が一気に突かれるのだ。心のすみのちょっとしたところを爽やかにくすぐるデリケートな句だと思う。

2013年2月 1日 11:54