お品書きにくも・そら・ひかり・水の音    小奈生

今年もたくさんの方にお世話になりました。みなさん、どうもありがとうございました。
もうじきやってくる新しい年が、おだやかなよい年でありますように。

2012年12月31日 09:47

歳暮吟。

桃雅会(連句の会)では、年末に各自が仲冬の季語で5句ずつ発句をつくるのが恒例でした。今年は、歳暮の句が1句含まれていればよいということで会報誌上のタイトルも「発句集」となりました。発句は何やら敷居が高く、そこに自分の句が並んでいるのもきまり悪いのですが、わたしはあくまで年末恒例行事、歳暮吟ということで。

極月の空の淡いろきはまれり
餅つきの湯気のむかうの記憶かな
年越しの蕎麦のお揚げは甘く煮て
年の湯や父とスーパー銭湯へ
真っ白の匂ひ手ざはり日記買ふ

2012年12月28日 10:55

ここからが父そこはみずうみ    小奈生

「今年の冬は寒い。」と父が言う。大きな湖にへばりついた小さな村から名古屋にやってきて2回目の冬である。去年の冬は、「名古屋は暖かい。」とうれしそうだった。1年歳をとるとがっくり体力が落ちて寒く感じてしまうと嘆いている。もちろん、日本中が去年より寒いのだと勘違いを指摘したのだが、まだ納得しない顔をしていた。きょうは冬至。テレビでは、「クリスマス最強寒波」などと有難くないタイトルをつけて気象解説をしていた。そういえばクリスマスも近い。「クリスマス」という単語に気持ちが華やぐことがなくなってからどのくらいたつのだろう。

2012年12月21日 14:07

らいねんの樅ともうじきすれちがう    なかはられいこ

(第34回ねじまき句会より。)
そんな頃合いになりました。毎日、あたふたと歳の瀬モードです。大掃除にとりかかった人もいるのに、わたしは机の上も台所も散らかる一方。こうドタバタしていては、誰とすれ違っても気づかないかもしれません。ところで、なかはらさんの句に出てくる「らいねん」はひらがな。他にこんな句もありました。
らいねんの桜のことでけんかする    なかはられいこ
「らいねん」は「来年」とはちがって、計測されない時間。今より先のいつかのことのように思われます。その不確かな頼りなさが、わたしにはかえって安心感を与えてくれます。「らいねん」のなかに期待よりは落ち着いた諦めのようなものを感じてしまうせいでしょうか。

2012年12月20日 13:49

わたしから見て鋭角の位置にきみ    小奈生

ねじまき句会12月の題は「鋭」。今月は「鋭角」を含む句が4句ありました。これは「鋭」という漢字のせいかなと思います。なかなか使い勝手が悪い。わたしも「鋭角」に参戦すればよかったな。そしたら過半数だったのに。惜しいことをしました。ということで、遅まきながら。

2012年12月17日 00:38

針葉樹林。

ねじまき句会11月の題は「針」でした。「針葉樹」または「針葉樹林」を含む句が3句並んだのでとりあげてみたいと思います。
生き方はかえられませぬ針葉樹  米山明日歌
ちょっと用あって針葉樹林まで  瀧村小奈生
さっきから脳の一部が針葉樹林  なかはられいこ
「針」のままでも「針」を含む熟語でも、いろいろ考えられるのに、針葉樹が並んだのには訳があるのでは?針葉樹林の魅力は何だろうということです。残念ながら11月の句会に出席できなかったわたしは、他の作者の意図を確かめることができませんでした。わたしの場合は、主に音です。シンヨウジュリンという音が心地よかったことが出発点になっているので、できるだけ意味がついてこないようにつくりました。もちろん、葉っぱとしてはかなり特異な形状も惹かれるものがあるように思います。だってあれは葉っぱとは呼べない形ですから。それが「生き方はかえられませぬ」であり、「脳の一部が」ということになるのでしょう。「脳の一部が針葉樹林」なんていやな感じ。あくまで「一部」ですが、感覚としてよくわかります。ありそうだから、いやなのです。でも完全な不快感ではなくて、笑いながら「まいったなあ。」と言えるようなものです。そこが音の効果なのではないかと思います。なかはらさんの句の場合はリンの音がはみ出しているところもいいのでしょうね。3人に注目された針葉樹林。やっぱりきみはかわいいやつなのですよ。

2012年12月15日 00:03

水滴の頃の記憶で暮らす冬    Sin

(「おかじょうき」川柳データベースより。)
名古屋での12月上旬の積雪は16年ぶりだということだ。まだ屋根の上もうっすらと白い。天気予報を見ながら北の国のことを思う。青森のむさしさん、啓子さん、冬鼓さん、かなえさん、Sinくんは元気だろうか。青森駅からまっすぐ伸びたあの通りはもう真っ白なのかなあ。青い海公園(だったと思う)の風はどんなに冷たいだろう。一本中に入った通りのマンションのライラックの木々も重い雪をのせて傾いているのか。名古屋で大騒ぎをしている積雪2センチなんて、青森では雀の涙ほどでもない、ひよっこ以下の雪にちがいない。青森の冬は、水滴もたちまち凍らせる厳しい冬なのだろうか。「水滴の頃の記憶」は、心までが凍りつくのを防いでくれる温度のある水の記憶。厳しい寒さを知らないわたしなどは、簡単に春を待ちすぎるのかもしれない。「水滴の頃の記憶」をときどき確かめながら暮らすような時間は、日々の中にもきっとある。

2012年12月10日 13:00

屈託のないひとひらが落ちてくる    小奈生

やたら寒い。雪を含んだ風の冷たさだ。岐阜あたりではきっともう降っているのだろうなと思いながら用をすませ、オアシス21のカフェ・ド・クリエにもぐりこむ。トールサイズのコーヒーを買ってほっと一息ついた。体も心もほっこりしたところでのんびりと外に出ると、雪!オアシスのところどころ切り取られた空から、さかんに雪が舞い落ちてくる。きれい。しばらく上を見上げたまま立ち止まる。なんだか楽しい。12月の街の夕暮れに降る雪は明るい。ライトアップの光や人々のざわめきや音楽。雪だけが無音で落ちてくる。気持ちいい。たぶん、家にいたら少なからず鬱陶しい気持ちで明日の心配をしていたのだろうなと思う。我ながらいい気なものである。

2012年12月 9日 21:37

何度でも轢かれて蛇は消えていく    丸山進

(朝日新聞「東海柳壇」10月より。)
山之口獏さんの「ねずみ」という詩がある。丸山さんの句は、おなじテーマを十七音の川柳が十分に表現し得ることを示してくれる。心強くうれしい一句である。

   ねずみ     山之口獏

生死の生をほっぽり出して
ねずみが一匹浮彫みたいに
往来のまんなかにもりあがっていた
まもなくねずみはひらたくなった
いろんな
車輪が
すべって来ては
あいろんみたいにねずみをのした
ねずみはだんだんひらたくなった
ひらたくなるにしたがって
ねずみは
ねずみ一匹の
ねずみでもなければ一匹でもなくなって
その死の影すら消え果てた
ある日往来に出て見ると
ひらたい物が一枚
陽にたたかれて反っていた

2012年12月 4日 13:17

吊り橋をゆらしてるのは私です    米山明日歌

(第92回ねじまき句会より。)
橋を渡るときは、ちょっと特別な気持ちになる。日常生活の中で、買い物の途中に小さな橋を渡るときでもそうである。立ち止まって橋の下をのぞきこむ。あまりきれいそうではない水の中を鯉が泳いでいる。亀がいることもある。サギや、ときには鵜がつっ立っていることもある。何がどうなのかと言われると困るのだが、足を止めずにはいられない。橋を渡ることは特別な気分を伴う。それが吊り橋なら一層だろう。残念ながらわたしはまだ吊り橋を渡ったことがない。歩けば揺れる。もちろん、揺らせばもっと揺れる。危うさと華やぎが入り混じった気分を想像する。揺れればこわい。実は揺れて一番こわいのは自分なのだ。それなのに、揺らさずにはいられない。もっともっと、ぐわんぐわんと。「私です」に集約される可笑しみとせつなさが快い。

2012年12月 3日 14:56

すこしくび傾げたままで枯れている    魚澄秋来

(第72回ねじまき句会より。)
父が越してきてから、花のある暮らしをさせてもらっている。ご近所さんに「イメージが変わったね。」と言われると、これまでどんなに殺風景だったかと恥ずかしい。「おかげさまで、父が・・・ムニョムニョ・・・。」と言ってへろへろ笑うしかない。でも、本当におかげさまで新しい発見が多い。名前が言える花は数少ないが、それはそれでよいことにした。最近のようにめっきり寒くなっても、依然、頑張っている。薔薇もまだまだ花をつけているし、ルリヤナギは秋口からずっと咲きっぱなしだ。初夏に咲いていた鉄線が秋にまた花を咲かせたのには驚いた。夏が長引いて秋の短い今年の気候は花にはさぞかし迷惑なことだろう。紫の具合もやや元気がなく、枯れているのかと心配になるほどだ。少し首を傾げた姿勢は、ありのままに運命を受け入れる自然体である。枯れていたとしても死んではいない。首を傾げてわたしたちを見ている。「いいのよ。」と穏やかな声が聞こえてきそうである。

2012年12月 2日 20:32

手さぐりであばら骨からピンを抜く    安藤なみ

(「川柳カード」創刊号より。)
左の胸の下から二番目のあばら骨、やや中央寄りの部分に手をやる。だいたいの場所はわかっているから、手さぐりでOKである。そうか、このあたりにピンがあるのだな・・・。ピンを抜くと、何かが勢いよくあふれだすのだろうか。そのときの爽快感を想像する。いや、だめだ。このピンは抜けない。危険すぎる。手をひっこめる。でもちゃんとピンのある位置はわかる。わたしの場合、抜いてみたいけれども抜かないピンである。ひとりひとりの心の中に閉じ込められたものを押しとどめる一本のピン。「あばら骨」は、いかにもピンを刺すのに適切で現実的な手触りの好ましい選択だと思う。そして何よりも、危うさをしたたかに切り抜けるからりとした口調が気に入っている。

2012年12月 1日 12:34